« 1977年12月 | メイン | 1999年12月 »
1999年11月24日
思い出横丁で火災
大事件です。
あの、新宿にある「思い出横丁」が火災で燃えてしまったそうです。なんでもラーメンやのカワチヤから出火したとか・・・・。
嗚呼!もう!誰よ!僕の大好きな「思い出横丁」を灰にしたバカは!コレを期に再開発とか言い出すんじゃねぇだろうなぁ!
ダメ!絶対ダメ!「思い出横丁」は、終戦間もない頃の日本の姿を現代に伝える文化遺産なの!たとえ不衛生でも、たとえ不味くても
「思い出横丁」は日本人の心なんだからOKなの!というわけで「思い出横丁」復活&存続を希望します。
投稿者 abiru : 01:35 | コメント (0) | トラックバック
1999年11月20日
今日の感動したひとこと
友人が聞かせてくれたCDの曲の歌詞から・・・・。
「 『愛で地球が救える!』と、救いきれないバカが言う。 」
感想:そのとーりっ!!
投稿者 abiru : 01:31 | コメント (0) | トラックバック
1999年11月19日
あのぉ、どっちかはっきりして下さい。
大学2年の頃、東京に残してあった住民票を江別市に移した。その際にそれまで持っていた「東京都」の表示がある障害者手帳を「北海道」のものに変更しようと母に頼んで、両親のいる地元の市役所に手続きに行ってもらった。
すると市役所の職員は、私が親の扶養家族であるため住民票の場所に関わらず、障害者手帳は、親がいる「東京都」のものになる旨教えてくれたという。この時、私はある疑問を感じたため、それを再び両親に頼んで問い合わせてもらった。
その疑問とは、以下の2つ。
1.助成金や年金などの申請を江別市に提出した場合、「東京都」の障害者手帳で問題ないのか?
2.逆に助成金や年金などの申請を東京都に提出した場合、東京都民ではない私は対象になるのか?
この問い合わせに対する回答は、「障害者手帳にある都道府県の表示に関わらず住民票のある場所(江別市)に申請を提出すれば問題ない。」
この時は、これで一安心した。ところが・・・・。
私が、運転免許を取得しようと思い立った時、申請をすると障害者を対象とした運転免許取得に関わる助成金が受け取れる事を知り地元の江別市役所へ申請したことがあった。
すると、江別市の職員曰く「東京都の方に申請して下さい。」
いやな予感・・・・。
東京で同様の申請。すると、やっぱり、「江別市の方に・・・・。」
どっちやねん!!!!!!
結局、江別市から無事に運転免許取得に関わる助成金を頂く事ができました。
この事例が、どちらかの職員の勘違いなのか、それとも制度上の不備なのかはわかりませんが、思わず「『障害者が親元を離れて一人暮しする事なんて無い』とか
安易な事を考えて制度が作られているのでは?」とか疑いたくなってしまいますね(笑
「お役所しごと」はやめましょう!(ぷんぷん!!)という体験談でした。
投稿者 abiru : 01:26 | コメント (0) | トラックバック
1999年11月16日
神様は、そんなに優しくはない。
新興宗教を熱心に信仰しておられる方々は、何を求めて、その信仰の門を叩かれるのでしょうか?「救い」でしょうか?「心の安定」でしょうか?「癒し」でしょうか?新興宗教に関して深く研究したり、調べた事はありませんがメディアなどで目にする新興宗教を見ていると、私は、「安易」であると感じてしまいます。
いや、安易過ぎると言っても過言でないでしょう。「教祖」と呼ばれる人が安易に「私は神である。」といった類の言葉を口にしたり、現世の苦役から逃れる方法が、簡単に示されていたり・・・。あまりにも耳障りの良すぎるといいますか人間にとって都合の良い部分が多すぎて、逆に宗教の名を借りた「苦しみから逃れたい!」という人間の欲望がその裏に見えてしまいそうです。
無論、宗教に苦役からの救済という側面があることは事実ですが、そう簡単に助けを求めて良いのでしょうか?その前にもっと何か現世に生きる一人の人間として努力できる要素が残されているハズだと考えます。
私は、神様という存在を厳しい父親のようなイメージで考えています。父親は、多少のことで子供が困っていたり、泣いていたりしてもそう簡単には助けてくれないものです。まして、甘やかしてはくれないものです。何か大きな危険が迫っていたり、子供の力では、どうしようもない事に直面したときに少しだけ手を貸してくれたり、適切な助言をくれたり、勇気づけたりしてくれる存在です。更に言えば、父親が課した試練から逃れようとする子供には、決して良い顔はしないものです。
そういった事から考えると私には昨今の新興宗教の構図は、甘ったれのガキと甘やかしてばかりの親に見えてしまうのです。やはり、宗教とは「苦しみから逃れる道具」ではなく、「苦しみに立ち向かう助け」とすべきだと私は考えています。
投稿者 abiru : 01:20 | コメント (0) | トラックバック
1999年11月15日
今、できること
中学校や高校時代の思い出話に興じたことがある。話が進むうちに自然と「今の学校教育はおかしい!」という批判的論調の話で盛り上がり、悪口を言ったり、どうすれば是正できるかなど話していた。
そんな時、私が話の腰を折るように「子供もいない、まして結婚すらしてない俺達が云々言ってもどうしようもない。」といったような事を言ったら、 それを傍らで聞いていた先生に「自分が学校教育を受けて、間違っていると感じるなら、今からそれを是正するために努力しなければ、君の子供の世代には間に合わないぞ!」と言われた。
いわれてみれば、そのとおりである。仮にたった今、画期的な教育制度が考案されたとしても、それを実際に実施していくのには、5年〜10年ぐらいは、掛かってしまうのであるから、私の子供の世代にその新しい教育を受けさせたいと考えるなら、今から努力することは、決して無駄ではない。いや、必要なのだ。
(話の都合上私が結婚できるか否かは、問わないものとする。(笑))
まだ見ぬ世代のことを考えて今から備えておくということ。結婚するか否かも、親になるか否かも、解らぬうちからその更に先の事を考え、また、私たちの子供たちの事を考えて、その世代の為に今、何かをする。これが「国家百年の大計を考える」ということなのだと再認識した。また併せてそれを考える事の難しさを痛感した。
ぼくたちは、ぼくらの子供達の為に今現在、何をしてあげられるだろうか・・・・。願わくば、私の子供には、親もうらやむような充実した環境と社会に暮らして欲しい。
投稿者 abiru : 01:12 | コメント (0) | トラックバック
1999年11月14日
人生の大先輩方に一筆啓上申し上げます。
「近頃の若いモンは・・・・。」と嘆いていらっしゃる方へ。その「若いモン」を育てたのは、誰ですか?
「最近の世の中は・・・・。」と嘆いていらっしゃる方へ。その「世の中」を作り上げてきたのは、誰ですか?
どうかお願いです。過ちを繰り返さぬように原因と回避のノウハウを私たちに教えてくださいませんか?
私は、それをあなた達の義務だと思います。