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2007年04月03日

自分の気持ちに忠実であるということ。

今日ニュースで見つけたひとこと。人間関係が複雑化し、「自分」という存在をあまりにも甘やかしている現代を的確に言い表しているように思う。



恋愛は相手があって成立する。本当に人を愛するなら、自分の気持ちに忠実なだけではダメだ


この発言をした裁判官に深く同意。

投稿者 abiru : 2007年04月03日 18:42

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コメント

>人間関係が複雑化し、「自分」という存在をあまりにも甘やかしている現代を的確に言い表しているように思う。

これは、ちょっとわかりにくいですが、「じぶんの気持ちにだけ忠実」な人間が増えている気がするということですか?

それって、人間関係が複雑化したことと関係あるのかな~?

その疑問はさておき、いつものあびさんの扱うテーマとなんか違いますね!
さては、・・・恋でもしていますか?ww

それはともかく、わたしは個人的にグサッとくる引用でありました。山さんに恋焦がれている日記を読んでいるあびさんならお分かりいただけるかと思いますが・・・
まるでじぶんのことを云われているような気になりました♪
じぶんの感情に忠実に生き(過ぎ)ているもんな~。

相手が振り向いてなくても「恋」はそこにたしかにあると思うのですが・・・「恋愛」は2人で築くものなのかな?

投稿者 よもぎ : 2007年04月04日 00:10

コメントありがとうございます。

> 「じぶんの気持ちにだけ忠実」な人間が増えている気がするということですか?

そのように感じています。もしくは相手の気持ちを推し量る事の出来ない人と言い換えてもよいでしょう。自分ばかりを優先し、主張しすぎて協調して相手と人間関係を築くという事が不得手な人が増えているように感じます。

それと同時に少し内容が異なりますが、相手に対して暗黙のうちに自分と同じ考えや感覚を共有している事を求める人も増えていると思いませんか?

「mixiの踏み逃げ禁止」に見られるような「トモダチというのはこうじゃなきゃダメ!」というようなトモダチ関係のあり方に暗黙の「お約束」を求める人が増えていると思います。

こうしたいわゆる「トモダチごっこ」に興じて喜んでいる人が増えたので人間関係が複雑化してやりずらくなったなあと感じているわけです。

> それって、人間関係が複雑化したことと関係あるのかな~?

「暗黙に自分と同じ考えや感覚を共有している事を要求する人」と「じぶんの気持ちにだけ忠実」な人の間に共通項があるように感じたので、このような言葉になりましたが、厳密にはテーマを別けて論ずる内容でしたね。ご指摘ありがとうございます。

こんなふうに「自分が大事!自分が大好き!」という人がいる一方で「ホントウの自分探し」とやらが止められない人たちがいます。

各人の自分との付き合い方や距離感って興味深いですね。

> 「恋愛」は2人で築くものなのかな?

これは、愚問を仰る。。。恋愛とは相手があってはじめて可能になる行為ではないでしょうか。一人でやるのは自慰行為です。(笑)「片思い」などという薄甘く小奇麗で便利な言葉も存在しますが、少なくとも恋愛とは異質なものなのではないでしょうか。これは前者の自慰行為とほぼ同義語と判断して差し支え無いものと考えます。

おっと、ちょっとばかりエキサイトしてしまいました。どうかご容赦を・・・。

投稿者 あびる : 2007年04月04日 00:37

丁寧なレスありがとうございます。

恋に生きるよもぎとしては、ここで引くわけにはいきません(笑。もうしばらくおつき合いの程を。。。

>恋愛とは相手があってはじめて可能になる行為ではないでしょうか。一人でやるのは自慰行為です。(笑)
「片思い」などという薄甘く小奇麗で便利な言葉も存在しますが、少なくとも恋愛とは異質なものなのではないでしょうか。これは前者の自慰行為とほぼ同義語と判断して差し支え無いものと考えます。

片想いは自慰行為ですか。それはいちぶ、そうかもしれませんね。
でも、辞書によると
れん‐あい【恋愛】
特定の異性に特別の愛情を感じて恋い慕うこと。また、男女が互いにそのような感情をもつこと。「熱烈に―する」「社内―」
こい[こひ] 【恋】
[1] 異性に強く惹(ひ)かれ、会いたい、ひとりじめにしたい、一緒になりたいと思う気持ち。

これを読む限りでは、恋愛とは、片想いも両想いもひっくるめていいのではないでしょうか?
つまり「相手があってはじめて可能になる」というけれど、当然片想いにも相手はいるのですから。

こんなのも載っていました。
→(句)恋(こい)は曲者(くせもの)
→(句)恋(こい)は思案(しあん)の外(ほか)
→(句)恋(こい)は盲目(もうもく)
まさしく恋とはそんなものであります。

たぶん、あびさんの仰っている「恋愛」とは、「恋愛関係」にある2人が、2人で紡いでいく「絆」、「関係」のことを指しているのでしょうね。

ですが、そこにあるものも、1人1人の「恋」であるのだと思います。ときに一方的な。

想いをもっていても、行動せず、相手を推し量ってアレコレ思い悩んで思いとどまって、結局自分の気持ちをそっとしまっておくなら、それは関係にはなりえませんね。

逆に相手にそれを伝えた場合、そこでどのような関係が築けるかは、そこからだと思います。

自慰行為になるかどうかは、その人の振る舞いによるのではないでしょうか?

わたし自身を振り返って云えば、両想いでも片想いでも、実感として恋愛に変わりはありません。

恋愛とは1人でやっても2人でやっても、理屈の通じない想いだと思います。

けれど、恋人同士、夫婦などの関係の中で築いていく関係の中でも、それこそ、あびさんの仰っている
>「暗黙に自分と同じ考えや感覚を共有している事を要求する人」や
>「じぶんの気持ちにだけ忠実」な人になってしまえば、
限りなく自慰行為に近づくと思いませんか?

恋愛に関しては、とりあえずここでいったん。
わたしとしては「恋愛は行為ではない。想いである。よって1人でも成り立つ。片想いが恋愛とは異質なものであるとするあびさんの言い分には同調できない」です。
身に覚えがあり過ぎて、エキサイトしてしまいました(笑


それはさておき、
>自分ばかりを優先し、主張しすぎて、協調して相手と人間関係を築くという事が不得手な人
>相手の気持ちを推し量る事の出来ない人
>相手に対して暗黙のうちに自分と同じ考えや感覚を共有している事を求める人

これに関しては恋愛に限らず、耳が痛く、また世間を見回してみてもうなづけるご指摘ですね。

>「mixiの踏み逃げ禁止」に見られるような「トモダチというのはこうじゃなきゃダメ!」というようなトモダチ関係のあり方に暗黙の
「お約束」を求める人が増えていると思います。
あびさんは自分流を貫いていそうなイメージですが、
>人間関係が複雑化してやりずらくなったなあと感じている
のは意外と言うか、免れえないんですね。あびさんでも。

女性同士はもっと気を遣いますよ~。ふぅー。
でも、暗黙のお約束を求めているだけでなく、不安と自信のなさ、自分で考えることを充分しない、自分でジャッジしないなどの表れでもあるような気がします。

足あとだけがついていたからと言って、自分を嫌いなのかと思い悩む、足あとつくのが嫌で他人のIDから知人のを覗かせてもらう、などに至っては、何か日本に蔓延しているヘンな病気があるような気がしてきます。

ただ、人間お互いに気にならないワケではないだろうから、そこで気になれば率直に「読んでてどう感じた~?」などと相手に聞いたり、「コメントはこういう理由でほとんど書けないけどいつも近況や考えてること楽しく読んでるよー」と伝えたりできるのも一種の対人スキルだと思うのですが・・・。

相手の気持ちって推し量っても、間違っていることが近しい間柄でもあります。推し量ることの謝りを恐れ過ぎなのかもしれませんが、わたしは腹割って聞いちゃう、話しちゃう派ですね。


非常に長くなりました。(謝ることではない気がします。)それだけ、あびさんの文章から刺激を受けて考えさせられたということですね。
自分の日記に書こうと思っていたようなことまで書いてしまいました。分量的にも。

投稿者 よもぎ : 2007年04月04日 03:13

あ、そうだ。書き忘れた。元ネタを読みたいので、情報教えてください~。

あと、一晩経ってみて、ちょっと揚げ足取りだったかな~?
>本当に人を愛するなら、自分の気持ちに忠実なだけではダメだ
これに異論があるのかというと、そうでもなく、ただ自分自身に突きつけられるものがあったのと、片想いは自慰行為、というあびさんの言葉に反応してしまったようです。少しずれていってしまったかな?

投稿者 よもぎ : 2007年04月04日 10:51

投稿者 あびる : 2007年04月04日 12:31

>もしくは相手の気持ちを推し量る事の出来ない人と言い換えてもよいでしょう。
>自分ばかりを優先し、主張しすぎて協調して相手と人間関係を築くという事が
>不得手な人が増えているように感じます。


なるほど。
でも、こういう人と話すと、
「私はだれだれのためを思っているからこそ言っているのよ!」と
言い返されたりしますね。

その人は、親切で、思慮深いつもりなんです。
そして、ある一面から見れば実際にその通りでもあると思うんです。

しかし、おそらくこういう人は「協調」をはき違えているのかなあ、と思います。

「自分と他人とは絶対にわかり合うことができない」
「他人は自分の思い通りには絶対にならない」
ということを前提に据えておきながら、
できるかぎり近づいて行くことが人間関係の正しい姿かと私は思いますが、
こういう人は、「絶対にわかり合うことができない」ということを、
頭ではわかっていても、感覚的に理解していないと思うのです。

たとえば、あびさんが「頭が痛い」と言ったとしますよね。
私がそれを聞いて、「ああ、頭が痛いんだな、かわいそうに、
私だったら、この薬を飲むだろうから、この薬をあげよう」
と考えて、薬を差し出すことはできるけれども、
その薬を飲むかどうかはあびさんの自由だし、
私は頭の痛みを共感したとしても、実際にその痛みを
体験することはできないし、どれくらい痛いかも知れない。
つまり、完全な理解は成り立たないはずなのに、

ところが、「その頭の痛みを私はわかってあげている」
「そして、頭が痛いときはこうするべきだ」という
大いなる誤解を抱く人はとても多いと思うのです。

そこに、「譲り合うことができない」という問題が生じると思う。
つまり、「『他者』を発見していない」人が多すぎるのです、現代。

せっかく腹を割って話しても、大前提をふまえていない人とだと、
どうどうめぐりになる。

最近、恋心が叶わなくて相手を刺したりする奴が増えてますが、
これも「他者を発見できていない」ことが理由だと思う。
いくら深く思おうが真剣に愛そうが、
「相手は自分の思い通りには絶対にならない」ということを
感覚的に体得できていないのです。

だから、あびさんが
>人間関係が複雑化してやりずらくなったなあと感じているわけです。
というのは、この「他者を発見していない人」が増えすぎて、
「協調」と「理解」が成り立たなくなったということではないでしょうか。

それが、コミュニケーションツールが発達したせいなのか、
はたまた教育が良くないのかは、わからないです。

「頑張れば必ず夢は叶う」というよく叫ばれるスローガンも
「他者を発見できない」理由の一端を担っているかな、と思います。
がんばったってどうにもならないことは、この世にいくらでも
あるもの。

などの話を踏まえて、
私も恋愛は相手があってこそ成り立つものだと思いますが、
「懸想」「片思い」というのは別のロマンとして認めています。

自分の欲望を、想像力で解消することができるというのも
人間唯一の素晴らしい特技だと思うからです。

という話、こないだしたわね。。。

なっげー。
ごめん。

投稿者 矢本 : 2007年04月04日 14:39

あびさん、ネタ元さんきゅ~です。やっぱり、
>(ストーカー規制法違反の罪に問われた被告の一審有罪判決を支持して)
でしたか~。
そんな気がしていました。そりゃあ、云われますよね。
・・・わたしも山さんに告訴されないように注意しようっと♪(笑

投稿者 よもぎ : 2007年04月04日 21:29

矢本さん、初めまして。よもぎと申します。
あびさんから、お名前はかねがね・・・

>「自分と他人とは絶対にわかり合うことができない」
>「他人は自分の思い通りには絶対にならない」
17年になる他人との同居生活の中で、
やっと心底思い知ったことのような気がします。

頭痛の例え、すごくわかりやすいです。
夫や友人が喘息だった時、どれだけ同情してるつもりでも
全然わかってはいなかったんだな、ということを
自分がなってみてよくわかりました。
気持ちにしたって、どれだけ心を尽くして語り合っても
>完全な理解は成り立たない
その通りだと思います。
>できるかぎり近づいて
いきたいという願いを持ち続けてはいますが・・・。

それでも、
>「頭が痛いときはこうするべきだ」と聞こえかねない
メッセージを人に送っている可能性はあるなぁ・・・と
どきっとさせられました。 

ここで出会った
>「『他者』を発見していない」人
という言葉は胸にしまっておこうと思いました。
なりたくないなぁ・・・。

>私も恋愛は相手があってこそ成り立つものだと思いますが、
>「懸想」「片思い」というのは別のロマンとして認めています。
>いくら深く思おうが真剣に愛そうが、

片想いでは、その人の存在丸ごとに理屈ぬきで
強くどうしようもなく惹かれてしまうことはあっても、
相互の関係性がない以上、「深く」とか「真剣に」愛する、
という言葉は独りよがりになってしまって、
当てはまらないのかもしれませんね。
やっぱり「片想い」と「相思相愛」の距離は果てしなく遠いのですね;
「相思相愛」もいつなんどき、という曲者だったり・・・しますよね。

まして、愛する相手を刺すなんて、「自己愛」でしょう。。。


>コミュニケーションツールが発達したせいなのか、
>はたまた教育が良くないのかは、わからないです。
どちらも人間に根深いところで影響を与えているように感じます。
携帯電話やメールなどが小学生から当たり前の時代というのは
どこかで何かが失われている気がします。
食べ物も、遊ぶものも、着るものも、どこか人を育てないモノに
なっていってるのかな?
「勉強はできるけど、学ぶことはキライ」今日ニュースで読んだ、
そんなアジアの子どもたち像もかわいそうだなぁと思います。
学ぶことは本来誰にとっても面白くなり得ることなのに。

>自分の欲望を、想像力で解消することができる
どきっ ☆

長々と勝手に反応してしまいました。
考えさせてくださってありがとう。矢本さん。

投稿者 よもぎ : 2007年04月04日 21:31

>食べ物も、遊ぶものも、着るものも、どこか人を育てないモノに
>なっていってるのかな?

なるほど。そうかもしれません。
最近の子どもは、生き物から食べ物ができるところも見たことがなくて、
お肉も野菜もともとラップでくるまれているもの、と思っているのかも。。。
と思いますね。

……ということや、「他人を発見すること」ということについての私の意見は、
じつは、哲学者の鷲田清一先生という方の本から大いに影響を受けたものです。

鷲田先生は、「臨床哲学」という、「哲学をただの学問とするのではなく、
具体的な問題の解決のために生かそう」ということを提唱されている先生で、
ファッションや恋愛、仕事、老いなど、とっつきやすいテーマから、
やさしくてためになるお話を書かれています。

よもぎさんも考えることが大好きな(または、どうしても考えずにはいられない)
方のようですから、機会があったら鷲田先生の本を是非一度
紐解いてごらんください。
もしかしたら、すごい出会いがあるかもしれません。。。

また、お話いたしましょうね(^^


投稿者 矢本 : 2007年04月06日 12:32

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