あびるのルーツに関する情報
- 父の説
- 阿比留は蘇我氏との関係あり?
- 本ページを見て下さった方からの情報1
- 本ページを見て下さった方からの情報2
- アビルとは民族の名称だった説
- 本ページを見て下さった方からの情報3
- 本ページを見て下さった方からの情報4
父の説
父の話によれば、阿蛭家が仕えていた藩が九州にあったが、小さな藩であった上に幕府に対して反抗的態度をとっていた事が原因で、改易か取り潰しになりそうになり、当時、同じく幕府に反抗していた現在の千葉県にあった「佐倉藩」に逃れたという。歴史的な背景などは調査していないが、この説であれば、我が家の先祖が千葉県にいた事も説明できる。
阿比留は蘇我氏との関係あり?
それともう一つ、情報のソースは失念してしましましたが、「阿比留」が蘇我氏の末裔ではないか?という話を聞いたことがあります。ちなみに阿蛭家でどこかの末裔だったという話は聞いたことがありません。
ここに書いていいのかな。
蘇我氏と関係のある対馬の苗字は永留だと思います。
元々は対馬一宮木坂神社の神官の家系だった気がします。
「なかとみ」と「ながどめ」は似てるでしょう?
中臣家が対馬からわたったという説は結構有力ですよ。
本ページを見て下さった方からの情報1
このページをご覧下さった方から以下のような情報を頂きました。
「あびる」姓に関してですが、 とりあえず、手元の資料で簡単にわかることだけをお知らせします 「あびる」姓は上総国畔蒜荘(現在の千葉県袖ヶ浦市付近) の地名が発祥地です。 平安時代に対馬に渡って、刀伊(異民族)を討ってそのまま対馬に住みつき、 在庁官人(地方官僚)となったものです。 のちに宗氏(江戸時代の対馬藩主)が対馬に渡ってきたため、勢力は衰えましたが、 現在でも、対馬6町のうち、4町で町内の最多姓、1町で2位に入るという 島内の断トツの最多姓となっています また、読みが同じで漢字の表記だけを変えるということは、 江戸時代にはごく普通に行われていました 「阿蛭」というのは大変珍しいのですが、 「阿比留」とルーツは同じだとおもいます
こんな情報が寄せられるなんて、インターネットの情報網ってすごいんだなぁ〜。
しかし、父の説にあるような「九州→千葉」移住説ではなく、「千葉→対馬」という情報には驚きました。
しかし、なんでわざわざ平安時代に対馬に移住したのかという疑問は残りますね。しかも、先住の異民族を討ってまで・・・。「千葉→対馬」の距離を考えれば水上を行ったとしても当時は、過酷な旅だっただろうから、上総国を出なければならないよっぽどの事情があったのではないかと考えられますね。(なんかヤバイ事でもしたのかな?)それとも朝廷などの権力によって強制的に改易させられたか、大陸から入ってくる異民族の討伐を命令された可能性も考えられます。いずれにしても、この時期に何らかの政変があり、そのとばっちりを喰らったことは間違いなさそうですね。
本ページを見て下さった方からの情報2
阿比留家が九州に改易になった可能性について以下のような情報が寄せられました。
平安時代になっても,東国はまだ大和朝廷の植民地的なところがあって, 防人の制度として東国の民が九州の防衛に強制的に送られていたようです。 上総の「あびる」がそのために対馬に送られたことは 十分考えられるのではないでしょうか。
現代風に言えば、国土防衛の為に転勤になったといったような感じでしょうか?
悪く言えば、 「とばされた」 ってヤツですね。
アビルとは民族の名称だった説
以下は、このページを見て下さった方から頂いた情報です。
「阿比留」はもともと島民の名称として使われていたようです。 ちょうど「アイヌ」や「クマソ」のように大和民族が当時、大陸系民族や南方系 民族で構成されていた海賊の住む対馬の住人を総称してアビルと呼んでいたそうで す。それが森岡さんの記載の中にあります「刀伊の入港」と呼ばれる朝鮮女真族の 九州侵略を対馬上陸時に好戦したことから当時の天皇家より阿(高貴な物につける 尊称、阿弥陀など)比(ここ)留(とどまる)という当て字をもらい「阿比留」に なったと書いていたような気がします。
う〜ん、この説によれば「アビル」というのは、もともと単なる名字ではなく、その土地の民族全体に付けられた総称だそうです。なんだかずいぶんグローバルな話になって来ましたねぇ〜。ようやく "World wide" な感じがしてきました。
本ページを見て下さった方からの情報3
ごめんなさい。歴史に関する知識が無いのでメールの抜粋をそのまま記載させて頂きました。
千葉県の北小金、旧小金宿の長老の中に「安蒜」氏がありました。 安蒜氏の出自は幾つか説があって、小金大谷口城主高城氏(千葉氏の一族)の分れ といわれています。 また別の説では上総国畔蒜郡から発生した「畔蒜」氏で、これは千葉氏とも藤原 氏ともいわれています。しかし、古代において畔蒜郡は望陀郡に合併され、畔蒜氏 もいつのまにかこの地を去っていきました。康正二年に真里谷武田氏が攻め込んで 、その際に葛飾地方に逃れて、高城氏の家臣となったともいわれています。 高城氏の家臣として登場する、安蒜丹後淨意は高城氏の居城である大谷口城(約 10万屐砲鬘掲かけて築きました。元々高城氏は根木内(国道6号線根木内交差 点)に城を構えていましたが、手狭になったため、天文6年に大谷口に移りました。 安蒜丹後の子(と思われる)安蒜伊予守は永禄7年の国府台の戦いに参加、その 子(と思われる)安蒜備前守は、秀吉の北条氏征伐の時、城主・高城胤辰が小田原 に参向している留守を守っていました。小田原が落ちる直前、高城胤辰の命によっ て浅野長政の軍に大谷口城を引き渡して、流山地方に土着しました。現在、千葉県 流山市には安蒜氏が多いです。対馬にいる畔蒜氏は別系ともいわれています。 九州の安蒜氏は、千葉氏嫡宗家の宗胤が文永11年、元寇の際の警護番として肥 前国小城郡(佐賀県)に赴きましたが、その後に安蒜氏の一族が、何らかの事由が あって、千葉から九州の方に移住していったのではないでしょうか。 以上、参向になれば幸いです。 −高城氏庶流説による系図− 桓武天皇…千葉満胤−原四郎胤高−高城越前守胤雅−安蒜日向守胤俊
本ページを見て下さった方からの情報4
ごめんなさい。こちらの情報も私に歴史に関する知識が無いのでメールの抜粋をそのまま記載させて頂きました。
さっそくですが、僕の知っている範囲で"畔蒜"についてお教えします。 1 下総の畔蒜は久留里から移ってきた。 2 久留里の畔蒜は鎌倉時代以前に、備前から移ってきた。 1の説明 畔蒜は城(久留里城)を追われ、下総に落ちのびていった そうです。原因は千葉氏の争乱か、畔蒜は平氏なので 鎌倉幕府とのトラブルのいずれかと思います。 2の説明 下総畔蒜の家紋は"備前蝶かわり"で、その理由は 備前の殿様にいただいたものであると言われています。 追加 九州北部にも"畔蒜"はおり、僕は"阿比留"も"畔蒜"も 同源だと思います。また畔蒜は平氏であり、隠岐>備前> 下総と移ったのではかと推量しています。
変わり備前蝶
ちなみに我が家の家紋は「丸に抱き茗荷」です。
丸に抱き茗荷
- 24 - order indocin (2010年03月17日 04時56分14秒)
- 畔蒜誠です! - 畔蒜誠 (2013年08月12日 00時50分03秒)
- 家の家系も抱き茗荷です。流山になります - 安蒜 (2013年12月30日 22時07分47秒)
- 阿比留の先祖は郷士と聞いています。父の実家は武士から寺に変ったそうです。 - 阿比留清 (2015年03月24日 21時49分01秒)
- 畔蒜氏について - 畔蒜裕一 (2018年03月05日 14時30分51秒)
- 畔蒜家縁起 - 畔蒜裕一 (2018年03月05日 14時36分38秒)