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2006年05月08日

責任の処し方

私は独身で子供もいないから偉そうな事を言える立場ではないが、一人の身体障害を持つ者として以下のニュースを看過する事ができなかった。私の意見に関して批判を受ける可能性もあるだろうが、思うところを率直に書いてみたい。

知的障害持つ長女殺害 55歳母親「将来が不安」

記事の内容は以下の通り。


重い知的障害を持つ長女(33)の首を絞めて殺したとして、宮城県警角田署は6日、同県角田市枝野寄井の無職佐藤隆子容疑者(55)を殺人容疑で逮捕した。長女は市内の施設に入所していたが、連休のため3日から1週間の予定で一時帰宅していた。佐藤容疑者は「自分が死んだ後の娘の将来が不安だった。産んだ責任は自分にある」などと話しており、同署は長女の将来を悲観し、殺害したとみている。

私はこの記事を読んで次のように感じた。

「この人は最後に親である事を放棄した。」

私の身近には知的障害者はいない。だからこの母親の苦悩を共感する事も残念ながらできない。おそらく私の想像を超える苦労や苦悩があったと思う。しかしそれを勘案しても自分の子供を手に掛ける行為は到底容認できない。

この事件について「福祉の欠陥である」と主張するのは簡単だ。しかし私は行政の責任を問う前に母親自身の発言の中にある「産んだ責任」という言葉に着目したい。

特別な事情がない限り親は子よりも先に死ぬ。それは障害の有無とは無関係の「自然の摂理」でもある。だから全ての親は子が自分の死後も自力で生きていけるように育てなければいけない。子供が障害を持って生まれたのであれば、なおさらそれを意識して将来を見据えた対策を講じなければならない。それが正しい意味での「産んだ責任」なのではないだろうか。

最近、障害を持つお子さんの親御さんとコミュニケーションする機会を得て、そのパワーに圧倒され、そしてまた私を自力で生きていける状態にまで育ててくれた両親を身近に見ていて痛切に思う。

この母親の責任の処し方は間違っている。

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【追記】
Sun, 14 May 2006 02:34:57 +0900
河北新報ニュースにこの事件に関するもう少し詳細な記載がある記事がありましたので転載しておきます。

河北新報ニュース 子どもの将来に悩み 角田・長女殺害佐藤容疑者
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知的障害者施設から一時帰宅中の長女を殺害したとして、殺人容疑で逮捕された宮城県角田市枝野寄井の無職佐藤隆子容疑者(55)が、事件の前にも長女を殺そうとして、同居の母親(76)に制止されていたことが6日、角田署の調べで分かった。

 調べによると、佐藤容疑者は5日午後、長女の道子さん(33)の首を絞めようとしたが、母親に「子どもは天からの授かり物だから」と止められ、いったんは思い直したという。しかし、母親が就寝した後で、道子さんの首を絞めて殺害したとみられる。

 佐藤容疑者は道子さんの将来について悩んでおり、自殺をほのめかすこともあったらしい。周囲には「産んだ責任がある」などと漏らしていたという。
 道子さんは重度の知的障害があり、1981年から市内の知的障害者施設「はぐくみ学園」に入所。普段は同園で生活しているが、お盆と正月、5月の連休の年3回、1週間程度帰宅するのを心待ちにしていたという。

 秋葉仁園長は「6歳のころからずっと面倒を見てきた方なので…」と言葉を詰まらせた。今回、佐藤容疑者が3日に迎えに来たが、変わった様子は感じられなかったという。「口数の少ない人という印象。親の会などで悩みを打ち明けることもなく、とにかく信じられない」と話した。

 佐藤容疑者の両親は孫の道子さんをかわいがり、月1回の面会日にもよく姿を見せていたが、父親は今年1月に亡くなった。
 近所の無職男性(63)は「父が亡くなったショックもあったのだろうか。悩みが重なった結果だとすれば、悲しいことだ」と言葉少なに語った。
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投稿者 abiru : 2006年05月08日 17:45

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コメント

この手の殺人は度々耳にするけれど、本当に身勝手だと思う。

『産んだ責任』と言うのはまるで『産んではいけない子供だった』ように受け取れる。
子供は物ではない。

私は子供がいるけれど、障害はない。
だからそんな事が言えるんだ、と思われるかもしれないけれど
本当に子供が可愛いなら、どんな状況でも決して殺すなんてできない。
生を与えたものが死を与えるなんて。
それは『責任』じゃない。

言葉は悪いけれど、『始末』されてしまったのだと思う。

あびさんの言うように、自分がいなくなっても生きていけるようにするのが親のつとめ。
障害を持っていようが待っていまいが、それはみな同じ。

保育園時代に重い障害を持つ子供のお母さんと知りあいだった。
彼女は積極的に外出して子供に友達を作っていた。
再度の障害児に恐れることも無く、2児を出産した。
兄弟はとても仲良しで、家族はいつでも笑顔だった。
「私はこの子に喜びを数え切れないほどもらった。神様は私に天使を授けてくれた。」
とよく言っていた。

子供ももちろんだけれど、彼女こそ天使だと思った。

殺害された娘さんのご冥福を心からお祈りします。

長文失礼しましたm(_ _)m

投稿者 オランジェ : 2006年05月10日 00:19

私は、「知的障害を持つ人」と「その親」を良く知っているので、その事を加味した上で、私の意見を読んでもらいたいと思います。

知的障害者を持つ親御さんは、一度はこのような事を考えたことがあるのではないでしょうか?
「自分が死ぬときは、この子も一緒に連れて行こう」と。
実際そんな話を聞いたこともあります。
もちろん、本気の言葉ではない・・・いえ、
冗談半分、本気半分、と言ったところだったかもしれません。

だからといって本当に実行してしまったこの母親に対して、同情なんかしませんし、決して許しません。

ただ、施設から帰ってきた娘さんと、久しぶりに長い時間を一緒に過ごして、『将来の不安』が現実的なこととして、急に襲ってきたんだろうな・・・。と思います。

年老いていく自分。体の自由は利かなくなる、もしかしたら病に倒れるかもしれない。けれど障害を持つ、1人では生きていけない娘はまだ若くて元気だ。
自分に万が一のことがあったら?
この子はどうやって生きていくの?
誰がこの子の面倒をみてくれるの?

この子は、ちゃんと生きられるの・・・?

あびさんの「全ての親は子が自分の死後も自力で生きていけるように育てなければいけない」という考え方、もちろんその通りだと思います。ただ、(誤解を恐れず書かせてもらうなら、)知的障害者にそれは可能なことでしょうか?「1人で生きていけるだけの力」を身に付けられるだけの頭脳や能力があったら、『知的障害者』の認定を受ける必要は無いでしょう。

たとえば。
小学校1年生の子供を独り暮らしさせよう、と思いますか?
知識も、能力も、経験もない子供。
(もちろん障害の程度にも因るので、一概には言えませんが、)知的障害者に「1人で生きろ」というのはこれに似たようなことだと思います。

ただ、この子供は成長し、すぐにでも「1人で生きる力」を身に付けるでしょう。
しかし、知的障害のある人は、その『成長』のスピードが緩やかなので、なかなかその力をモノに出来ないのです。自分のモノにするまでに、私達の何十倍もの時間や努力が必要です。もしかしたら、一生かかっても無理かもしれません。

この母親はそれが解っていたからこそ、子供の将来が怖くなったのではないでしょうか。

でも、だったらなおのこと、あびさんが言うように、「将来を見据えた対策を講じなければならない」のですよね。
ただこの方の場合、入所施設を利用されていた、とのことで、「生活の基盤」は一応確保できていたのではないかと思うのですが・・・?

人づてに聞いた話なので詳しいことは知りませんが、ご両親とも亡くされた知的障害の方が、入れる施設が無く、定員に『空き』が出て入所できる施設が決まるまで、いろんな施設を転々としていた、という話を聞いたことがあります。

それを考えたら、この母親は、娘さんが将来暮らしていける場所をちゃんと用意していた。親としての責任の一端は果たせていたのではないか、と私は思います。

だからと言って、この親を援護するわけでも、容認するわけでもなく、先に書いたように、私はこの母親を許せません。

亡くなられた娘さん、彼女にだって、この先彼女の人生を生きていく権利があったのです。
それを、こともあろうに親が奪ってしまうなんて、言語道断です。
しかも、自分が不安だったから、なんて理由で。

この母親は、弱すぎました。
私はそう思います。


私の文才のなさで、かなり長文になってしまい、申し訳ありません。
うまく説明できなくて、誤解を招いてしまっているかもしれませんが、どうぞお許し下さい。

>あびさん
私の文章を読んで、不適切だと思ったら、どうか削除して下さい。
正直、自分でもこのコメントを載せてもいいものかどうか迷っています。

投稿者 hepepu : 2006年05月11日 03:13

hepepuさんコメントありがとうございました。正直に言うとこのエントリを書いている最中にhepepuさんがこのエントリを読んだらどのように考えられるだろうかと思い、公開を躊躇した瞬間もありました。率直な意見を書いてくれた事に心より感謝します。また私の配慮の足りないエントリの内容で気分を害されていたら、心よりお詫びします。

コメントを貰って気がついた点があります。「自力で生きていけるように」というのは「親がいなくても生きていけるように」とした方が、より適切なニュアンスだったと思います。

また、「成長のスピードが緩やか」という表現には非常に納得させられました。子供の頃入院していた病院では身体障害の子も知的障害の子も一緒に生活して一緒に遊んでいたのでこの表現には共感できる部分が大きいです。

> ただこの方の場合、入所施設を利用されていた、とのことで、
> 「生活の基盤」は一応確保できていたのではないかと思うのですが・・・?

> この母親は、娘さんが将来暮らしていける場所をちゃんと用意していた。
> 親としての責任の一端は果たせていたのではないか

この部分に言及している記事が見つからなかったので詳細はわかりませんが該当記事を読んでいて同じ疑問を持ちました。

> この母親は、弱すぎました。

同感です。

不幸にして母の手に掛かって命を奪われてしまった娘さんの魂と、自分の子供を手に掛けるに至ってしまったお母さんに一日も早く穏やかな日が訪れる事を願います。

投稿者 あびる : 2006年05月11日 08:34

>あびさん

まず始めに。
エントリの内容で気分を害した、なんて事ありませんよ。ご心配なく。

世の中の大半の人は「障害がある」、という事と無縁で生きています。
このエントリを読んだ人の中にも、そういう人は沢山いるでしょう。
「障害者ってなに?」と思っている人達に、その存在を気付かせ、どうやって生きているのかと言うことを少しでも印象付ける事が出来れば、このエントリをupした意義はあると思います。


>「自力で生きていけるように」というのは「親がいなくても生きていけるように」とした方が、より適切なニュアンスだったと思います。

あびさんの言いたかったことは、なんとなく解ってはいたのですが、『自力』という言葉の印象が強かったので、あのようなコメントになりました。
ただ、ニュアンスの問題ではなくて、もう一つ気になったのがその後に続く言葉でした。

『育てなければいけない』

知的障害者の親は、そのことについて、日々悩み、苦しんでいると思います。
私達では到底真似できないような努力をしています。
でも、それでも。
(こんな風に書くと、誤解されてしまうかも知れませんが、)
育てたくても、育てられないのです。

私達ならば、文字を書く、計算をする、料理をする・・・そういった日常的なことなどは、基本を教えてもらいコツさえ掴めば、出来なかった頃がウソのように、すぐに出来るようになるでしょう。
でも、知的障害者の場合、何度も何度も何度も何度も教えても、なかなか出来ない。
その時の親の気持ち・・・ジレンマだとか、無力感だとか、諦めだとか・・・。
それでも諦めずに、また一から丁寧に何度も何度も繰り返し教えていく。
そのことを思ったら、『育てなければならない』とは、私には言えないな・・・と思いました。

オランジェさんのコメントにもあるように、確かにそれは「親の務め」だと、私も思います。
ただ、人一倍努力しても、一所懸命に頑張っても、その勤めを果たせない親もいるんです。

その事を少しでも理解してもらえたら、嬉しく思います。


長々と偉そうなことを書いてしまって、すみません。
でも・・・。
自分の考えや気持ちっていうのは、想いが強ければ強いほど、うまく伝えられないものですね・・・。
文章書くのって、難しい!!!

投稿者 hepepu : 2006年05月13日 02:42

> そのことを思ったら、『育てなければならない』とは、私には言えないな・・・と思いました。

この部分を読んでhepepuさんが仰りたい事の感覚の一端を垣間見た思いがしました。問題の困難さがこの一言に凝縮されているように感じます。私は「知的障害を持つ子を育てる」という事とは直接関わる事がない立場にいるので「育てなければならない」という義務的な語彙を選択する事ができてしまったのでしょう。

同じ記事を読み、「この母親を許せない」という点については、ある程度同じ感想を持ちながらも、そこへ至る考え方や感じ方が、各人の立場や経験によってこのように相違しているという事実は非常に良い勉強になりました。

ありがとうございました。

投稿者 あびる : 2006年05月14日 02:23

とても遅れたコメントでごめんなさい。
hepepuさんのコメントを読み、自分の安易な意見に反省しています。

この母親はとてもがんばっていたのですね。
いえ、もちろんがんばらなかったんだろうと思っていたわけではありません。
いうなれば、がんばりすぎてしまったのでしょう。
不安を常に抱えた生活の中で頼りであったろう父親(ご主人ですね)の死…
いつ自分が死ぬか分からない、その恐怖。
入所施設だけでは安心できなかったのでしょうね。

自身も子供がいるため、あえて厳しい文章にしてしまいご気分を害されたかもしれません。申し訳ありませんでした。

母親の苦悩などきっと何も知らず、ただ母親に甘えていたであろう娘さんが不憫でなりません。
また、我が子を殺めてしまった母親はこれからどうやって生きていくのか…きっと一生自分を責めつづけていくのでしょう。
どうか、自殺だけはしないでほしいです。

>自分の考えや気持ちっていうのは、想いが強ければ強いほど、うまく伝えられないものですね・・・。
同感です。
言葉足らずですみませんでした。

長文失礼しました。
私も勉強させていただきましたm(_ _)m

投稿者 オランジェ : 2006年05月19日 21:12

そんなに責めないで下さい。
私だって、今まで、ずっと、健康な心で生きてきました。
でも、障害児を出産して、変わりました。子供に長生きしてもらいたくないです。将来のことが不安なのです。本人はもちろん、上の兄弟にかかる負担を考えると、不安で潰されそうになります。
親や兄弟がいなくても、障害者が幸せに暮らしていける福祉があれば、希望を持って生きられるのにっと、いつも思っています。
人も社会も障害に対して、壁があるんだなぁ、やっぱり弱いものは、いじめられるんだなっと思わされる事が多いのです。心も疲れてきて涙もでなくなってきました。私みたいに弱い人もいるんです。そんなに、障害者のお母さんを責めないで下さい。

投稿者 のぞみ : 2009年02月04日 02:51

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