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2006年06月21日

それでも受洗の時はやって来るか?

先日書いたエントリ「耳も心も痛いです。」に大変興味深いコメントを頂戴したので、そのその事に触れたいと思います。以下はコメントのやりとりです。

私:「ちなみに洗礼は受けていません。今後もおそらくは受けないでしょう。浄土宗の檀家である実家へのせめてもの仁義です。両親が亡くなった後なら、受洗するかもしれません・・・。」

このように私が書いた事に対して以下のようなコメントを頂きました。

まきねえさん:「受洗は、きっと、その時がやってくると思います。私は、洗礼、堅信と受けていますが(家族では、私と娘だけです)あまり、あれやこれは考えていません。極端な話し、お墓のことだとか......。決して、敬虔なクリスチャンとは言えませんが、やはり、信者であることは私の成分そのものです。私は、お寺の多い寺町近くに育ち、両親はクリスチャンではありません......それに、仏教は非常に身近なものです。それでも、受洗の時はやって来ました。」

私は以下の一言に「ハッ!そうなのか!」となりました。

「それでも、受洗の時はやって来ました。」

自分で洗礼を受けるとか、受けないとか考えているうちは、まだ、その時なのではないかもしれません。本当に洗礼を受けるべき状況になれば、その時はきっと、洗礼を受けるとか、受けないとか考えたり、悩んだりしているのではなく「洗礼は受けるもの。」というふうに当たり前の存在として認識しているのかもしれません。

考えてみれば、私が教会に通い出したきっかけもそうでした。かつて自分が通っていた幼稚園の教会が建て替えられたと聞き、「新しい建物が見たい」というだけの理由で行った礼拝が、いつのまにか習慣になりつつあります。別に強く救いを求めていたわけではありませんし、もともと信心深い方でもありません。気がつかないうちに、なんとなく教会に足が向くような状況が周りに醸成されていたように感じます。まるでそれが全て必然であったかのように・・・。ホントはここで「神様に導かれた。」とでも表現すれば格好いいのかもしれませんが、そんな感じはあまりなく、気がつくと私が進む先に教会が待っていてくれたという感じでしょうか。

いずれにしても、私が将来洗礼を受けて自他共に認められるクリスチャンになるかは、神様が決めて下さるはずです。神様が私に洗礼を受けさせた方が良いとお考えになるのであれば、きっと受洗の時がやってくることでしょう。それまでは、必要以上に悩んだりせず御心に身を委ねる気持ちでいようと思います。

投稿者 abiru : 2006年06月21日 20:13

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