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2006年07月08日
信仰はアクセサリではないという指摘
今日は、私とは異なる教えを信じる人たちと信仰について語り合う機会があった。
懐かしさから教会に通い始めた私の信仰は、昔遊んだオモチャを押し入れの奥から見つけ出して喜んでいるのと同じであって、本当の意味での信仰と呼ぶに値しないという批判をクリスチャンではない、ある人から受けた。
その知人は、こう続けた。
「君は『もう、このへんでいいかな・・・。』というような自分の成長を諦めるような弱い心になっているのではないか。」
「教会に癒しを求めているだけなのではないか?」
「信仰はアクセサリではない、自分を変革していく気概を持たなければ信仰は続かない。」
この方の仰る事全てに納得出来るわけではないが、懐かしさ故に教会に通い始めた事は事実であるし、今も自分が教会に通い続けている原動力の根底には「懐かしさ」や「郷愁」というような想いがあるのだと思う。自分を成長させていく心が弱くなっているという指摘には、多少の自覚もある。「信仰はアクセサリではない」という部分には賛成出来る。
このような指摘を第三者から受けるという事は、やはり今の私の生き様が客観的に見て不充分だということなのだろう。自分の信仰が単なるアクセサリやファッションではないという事を実証するためには、自分自身を変革し成長させる事を通して神の御業を体現して行くしか無いのだと思う。
神は私に試練を与えて下さる。私はその試練に応えて行かなければならない。
投稿者 abiru : 2006年07月08日 23:53
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コメント
あび氏の信仰の対象は、本当は新宿という説に一票。
(^-^;
>懐かしさから教会に通い始めた私の信仰は、昔遊んだオモチャを押し入れの奥から見つけ出して喜んでいるのと同じであって、本当の意味での信仰と呼ぶに値しないという批判を...
こう言い切ってしまったら、世界中のクリスチャンの大半はクリスチャンではなくなってしまう様な気がするけど... (^-^; どういうきっかけであれ、それにふれていく内に、それに気がついていけばいいんだと、僕は思う。 (なんとなく、話を聞いていて、この話の押し付けがましさから、その「教えの異なる信仰」が何教なのか想像がついてしまうけど...)
>「君は『もう、このへんでいいかな・・・。』というような自分の成長を諦めるような弱い心になっているのではないか。」
ま、ともあれ、しかし、ちょう、ぶっちゃけ、思いっきり、はっきり言ってしまうと、あび氏を見てて、それは感じる。 それは、人生の深遠が... とかそういうものじゃないけど、たとえば、Javaを勉強するのでも、オラクルの内部構造とか勉強するのでも、「まぁこんなもん」ってところでとまっちゃってるようなきがする。
西洋人の人と話してると、「聖書のように読む」っていう言葉が良くでてくる。 多分、毎日、ライフワークみたいに、ちょっとづつ何度も何度も読んでいくと、すこしづつ理解が深まる、という読み方なんだと思う。 たまに、Javaとかオラクルとか狂ったように詳しい人がいるけど、そういう人たちは、そういう読み方をしてるんだろうなって思う。 言われてみれば、RFCとか、JavaVMSpecとかも なんだか、経典のような書き方だしね。
僕は、西洋の人って「追求する」っていう考え方をキリスト教から受け継いでるんだなって思う事、少なくない。
そういうものを研究していく過程で人生を知っていく、みたいな。 なんちゃって。
投稿者 おかあつ : 2006年07月09日 14:01
こんばんは。また少し、時間が経ってしまいました。お久しぶりです。
私は、「懐かしさ」や「郷愁」というような想いで教会に通うことが信仰に値しないとは思いません。
>「信仰はアクセサリではない、自分を変革していく気概を持たなければ信仰は続かない。」
たしかに、信仰はアクセサリといったようなものではありませんが、自分を変革する...といったような、あまりロジカルな積極性がなければいけないとも思っていません。
だって、そんなこと言ったら、信仰を持つものは、強靭な精神の持ち主とならなければならなくなってしまうでしょ?もちろん、精神社会としての強靭さは信仰によってもたらされるのかも知れませんが、人がひとである所以は、その弱さであり、原罪そのものでしょ?
>それにふれていく内に、それに気がついていけばいいんだと、僕は思う。
おかあつさんのおっしゃるとおり私も同感です。
ソクラテスの言ったように「無知の知」を知るってことと同じかな?
自分が弱き小さきものであることは何ら恥じることではないと思うのです。それでも、求め求められる自分となることが出来たなら...それが、自分の変革へとつながるのかも知れません。赦し...とはまたそのようなものなのかも...と思いますが~。
はじめに戻りますが、、「懐かしさ」や「郷愁」...大いに結構じゃないですか~。
そのような感情は、きっとあびさんにかかる神の息吹なのだと思いますよ。
焦らないで...神様は決して急がしてはいないのですから~御心のままに~。
それから、弱い心ですが...
私なんて...弱い心ばっかり~?!
そんなに、強くはなれないわ。
それでも、あびさんのおっしゃるように、私はその試練に応えて行かなければならない。のね♪
大丈夫。
投稿者 まきねえ : 2006年07月13日 00:35