« 2006年06月 | メイン | 2006年08月 »

2006年07月30日

聖霊降臨節第9主日礼拝

一部の方々から「もう礼拝以外のエントリは書かないの?」という声も聞かれておりますが、決してそんなつもりはありません。ただ、他の事を書く時間がないだけです。どうかご勘弁を・・・。ホントに礼拝や信仰に関するネタだけでブログを書くのであれば、タイトルを「ダメ求道者のブログ 〜俺、姦淫するなかれ・・・。〜」とでも変更しますかね(笑

さて、今日も遅刻せず教会に到着、本日の聖書の講読分は前日に先読みしておきました。子供の時にこれぐらい熱意を持って勉強できていたら、私の人生もう少し違うものになっていたかもしれませんね。

■聖書

コリント信徒へ手紙 二6:1〜10(新p331)

今回の箇所でパウロさんが何を言いたいのか理解するのはなかなか難しい。

神様から頂戴した恵みを無駄にしてはいけません。まして自分達がやっている事(信仰)が周囲の人から避難されることの無いようにしなければいけない。どんな苦悩に遭っている時であっても純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉と神の力と、左右の手に持っている義の武器により、これに立ち向かい神の 僕(しもべ)である私たちの姿を体現しなければいけない。

そんな風に受け取りました。ちなみにこの内容に対する牧師先生のお説教の題名は「神の逆説」・・・。先生難し過ぎます。ボクには・・・。

■訳文について

個人的には、今回の箇所は翻訳にも問題があると感じました。無論、私はギリシャ語が読めるわけではないけれど、牧師先生がお説教の中で「ある聖書学者は・・・。」といって引用していた訳文は私たちの言葉に非常に近く、この文章の意図するところが容易に理解できたように感じました。礼拝後書店に行って口語訳、文語訳、新改訳と色々な聖書の翻訳を読んでみましたが、先生が引用されたようなわかりやすい文章のものはありませんでした。

来週、教会に行ったら牧師先生に出展を聞いてみようと思います。


■書店にて

渋谷の文教堂書店とブックファーストという大型書店を巡って宗教書のコーナーで色々資料を物色しました。なかなか「コレだ!」思える良い書籍はないものですね。思わず「まんが聖書物語」を買ってしまいました。最初は漫画なんてとバカにしていたのですが、なかなか面白いです。やはり古典中の古典、人類最大のベストセラーと言われるだけの事はあります。折りしも中近東で戦火が上がっている昨今、勉強のために読み進めたいと思います。


■今後、休日は書店で過ごそう。

ちなみに文教堂書店の2Fにはカフェが併設されており、買った本をその場で心ゆくまで読む事ができます。サイコーです。ブックファーストは店内にカフェこそありませんでしたが、店内の各所に椅子が置いてあり、心ゆくまで立ち読みならぬ、座り読み(!)ができます。なんて良い書店なんでしょう。私なんて思わず当初は買う予定の無かった岩波の「パウロ書簡」を購入してしまいましたよ。

投稿者 abiru : 23:40 | コメント (6) | トラックバック

2006年07月23日

聖霊降臨節第8主日礼拝

今週は遅刻することなく礼拝に出席、ちゃんと10:30の鐘の音も聞くことができました。

さて、先日は「信仰はアクセサリではない。」という批判を受け、はからずも自分の信仰が試される機会を得たわけですが、今週は意外にも自分が通う教会で自分の信仰について深く考えさせられる機会を与えられました。

■今日の聖書

コリント信徒への手紙一 11:27〜34(新p.315)

正直に言ってこの部分だけを読むと、「???」な感想を持ちますが、11章をはじめから読んでみるとパウロさんがコリントにいる信徒の皆さんに何が言いたいのかが少し見えてきたように感じました。きっとパウロさんが言いたかった事は、「教会にはいろんな人がやってきますから、常に自分以外の教会にやって来る人たちの事を思い遣り、配慮をして下さい。」という事なのだと思います。先日の「コリント信徒への手紙一 6:13〜20(新p.306)」といい、現代に通ずる部分が多いですね。パウロさんの仰る事は・・・。


■教会全体協議会へ出席

礼拝後に全体協議会へ参加させて頂きました。テーマは「”聖餐・主の食卓”を考える」でした。教会員でもなく、洗礼を受けていない私には聖餐や洗礼の意味について考える良い機会になりました。この件については、まだ自分の考えが充分に纏まっていません。いずれ時期がきたら改めてこの件について書きたいと思います。


■祈り

ご在天の父なる神様、御名を賛美致します。

洗礼も受けておらず、信仰告白もしていない私であっても日々の糧を与え、大いなる愛の中に生かして下さる事に心より感謝致します。

あなたの導きによって同じ教会に集められている人たちの中にも様々な想いや意見があるという事を知りました。多くの人が集まる教会であればこそ、意見の相違や、時には対立もあるやもしれません。しかし、私は信じています。どんなに意見の相違や対立があっても、祈りのうちに冷静な議論を積み重ね、合意を育んでいけば必ずしや皆が心を一つにして力を合わせる事ができると言う事を。

世の中には様々な意見があります。どうか、その中からあなたの御旨に叶うものを選び導いてください。今は人から認められなくとも、それがあなたの意志に沿うものであれば守られると信じます。もし私の考えがあなたの意志にそぐわないのであれば、懲らしめ、そして正しい道への導きを与えて下さい。

この祈りを父と子と聖霊の御名によって捧げます。アーメン。

投稿者 abiru : 23:30 | コメント (2) | トラックバック

2006年07月18日

60歳のLinuxユーザ

母親をLinuxのユーザにしたいと考えている。現状は以下の通り。

・PCでゲームをしたり、メールを読み書きしたり、Webを見たりしている。
・現在のOSはMS-Windows2000(SP4)
・おそらく母はそれがMS-Windows2000である事すら理解していない。
・PCやOSがカスタマイズ可能である事もきっと理解していない。
・困ったらすべて息子に聞けば良いと思っている。
・仮にPCが動かなくても生活上困ることはまったく無い。

上記を踏まえて考えた。私がすべて母の使用目的を達成できる状態に環境構築を完了させて「ホラ、新しい『ぱそこん』だよ。」といってLinuxをインストールしたPCを提供すれば、母は何の疑問もなくそのPCを使用するのではないだろうかと・・・。

Turbolinux FUJI で提供されるKDEのユーザ・インターフェースはWindowsと遜色無いほど洗練されていて非常に使いやすい。Firefoxも非常に良くできている。Thunderbirdもよくできている。GUIだけを使用している母のことだから、KDEの環境を何の疑問もなく使うだろう。きっと、この実験から得られるノウハウは非常に興味深いものになるだろう。

もし、移行にあたって障害があるとすれば・・・・。

・母が慣れ親しんだWinbiffではないThunderbirdのUIを受け入れるか。
・大好きなYahoo!GamesがLinux用のFirefoxの上で動くか。
・新しいPCを買う事を納得するか(『 使えるのにMOTTAINAI 』というだろうな。)

投稿者 abiru : 01:32 | コメント (3) | トラックバック

2006年07月17日

Movable Type 3.31にアップグレード

このブログで使用している Movable Type を最新版の3.31-jaにアップグレードしました。

もっとも、このブログを読んでいる人にはなんの変化もありません。ただブログを書く私の方が色々楽になるなど、恩恵に預かる事が出来るわけです。ちなみにこのエントリは新しいバージョンの動作テストも兼ねております。このバージョンからデフォルトのプラグインの中にStyleCatcherが入っているので、頻繁にデザインを変更するようになるかもしれません。だんだんMovable Type のインストールやアップグレードが簡単になってきました。いいことです。

投稿者 abiru : 21:06 | コメント (0) | トラックバック

2006年07月16日

聖霊降臨節第7主日礼拝

先週は、財布を紛失するという不測の事態のために礼拝を欠席しました。
今週こそは!という事で礼拝に出席しましたが、約5分ほど遅刻したことは内緒です。(笑

遅刻したので、10時30分に鳴る教会の鐘の音は聞く事ができませんでしたが、祝祷を受ける事はできたので、自分としては、とても安心しました。

さて、このブログで自分の信仰について記述するようになってから、諸処で波紋を呼んでいる部分もあるようですが、今週も恐れる事無く書いていきます。不快に思われる方は読み飛ばしてください。なんせ私の独り言なんで。

今週の講読は「ガラテア信徒への手紙5:2〜11(新p.349)」でした。

正直に言って・・・。

・聖書の該当箇所に書いてある内容
・お説教のタイトル「律法主義からの自由」
・牧師先生がお話になった内容
・聖書の小見出しのタイトル「キリスト者の自由」

これらの関連性が、今ひとつ理解しきれませんでした。まだまだ、勉強が足らないようです。(汗

聖書のなかでパウロさんは、イエス様の教えを信じているにも関わらずユダヤ教の風習である割礼を行う人たちに対して以下のように強く抗議しています。

「割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」
「そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」

自分の理解が正しいか判りませんが、きっとパウロさんがこのガラテア教会の人たちへの手紙で伝えたかった事は・・・。

・私たちの信じる神様は割礼の有無で人を区別する事は無いから安心しなさい。
・「隣人を自分のように愛しなさい」という教えを守れば律法全体を厳守するのと同じである
・だから律法の全てを厳守するのではなく、神の教えに基づいて生きていきましょう。

ということなのかなぁ〜っと考えました。

きっと、パウロさんがこのエントリをお読みになったら、「お前、全然判ってないよ。」と落胆されるかもしれませんね。(笑) このエントリに対するパウロさんのコメントを切望します。(←コメントが来るわけね〜だろ!


追伸:財布は前日に自宅の前まで車で送って頂いた際に車内で落としていたようで車の所有者の方が発見して下さいました。


祈り:

御在天の父なる神様、御名を賛美致します。

不自由な身体を持ってこの世に生まれてくる子供たちがいます。そのなかには親・兄弟や、医師、その他多くの人たちの助けが無くては命を保つことすらできない子もおります。

そして、そのような子らに少しでも自分で生きるための力を身に付けさせようと努力する、ある人がおります。私もその人の努力によって生きる力を身に付けた子供の一人です。しかし、その人の取り組みは周囲の人々には驚く程に理解されておらず、その人に協力する者もなく、その方は今日も孤独な戦いを続けていらっしゃいます。しかし、その方も年齢を重ねているので、あと2年もしないうちにその取り組みが続けられなくなる予定です。

医学の進歩でこれまでは助からなかった多くの命が助けられております。しかし、その結果、不自由な身体を持ったまま、この世に生きている多くの子がおります。現在の医学は助けた後の命に対してあまりにも冷淡です。身体機能を獲得するための適切な治療や訓練も受けられないままに放置されていると言って過言でない状態があります。

私たちは微力ながら、この現状を改善するための取り組みを始めました。しかし、多くの人間が様々な想いを携えた状態で関わっているために想いを一つにして力を結集する事ができずにおります。

長々と書いてしまいましたが、全能の父なる神様は、私のこの悩みと思いと状況とを全てお判りになっているはずです。どうか、この取り組みに参加する全ての者が想いを一つにして、その力が正しく結集され、不自由な身体を持ってこの世に生きる全ての人々が、健やかに生きていけるような状況を実現できるようにお力をお貸しください。

この祈りを父と子と聖霊の御名によって捧げます。アーメン。

投稿者 abiru : 19:37 | コメント (1) | トラックバック

2006年07月15日

釣り

byHEpMJP.jpg

13時間頑張って、この一匹だけでした。体中が日焼けというか既に火傷ですな。

投稿者 abiru : 23:26 | コメント (0) | トラックバック

2006年07月08日

信仰はアクセサリではないという指摘

今日は、私とは異なる教えを信じる人たちと信仰について語り合う機会があった。

懐かしさから教会に通い始めた私の信仰は、昔遊んだオモチャを押し入れの奥から見つけ出して喜んでいるのと同じであって、本当の意味での信仰と呼ぶに値しないという批判をクリスチャンではない、ある人から受けた。

その知人は、こう続けた。

「君は『もう、このへんでいいかな・・・。』というような自分の成長を諦めるような弱い心になっているのではないか。」
 「教会に癒しを求めているだけなのではないか?」
 「信仰はアクセサリではない、自分を変革していく気概を持たなければ信仰は続かない。」

この方の仰る事全てに納得出来るわけではないが、懐かしさ故に教会に通い始めた事は事実であるし、今も自分が教会に通い続けている原動力の根底には「懐かしさ」や「郷愁」というような想いがあるのだと思う。自分を成長させていく心が弱くなっているという指摘には、多少の自覚もある。「信仰はアクセサリではない」という部分には賛成出来る。

このような指摘を第三者から受けるという事は、やはり今の私の生き様が客観的に見て不充分だということなのだろう。自分の信仰が単なるアクセサリやファッションではないという事を実証するためには、自分自身を変革し成長させる事を通して神の御業を体現して行くしか無いのだと思う。

神は私に試練を与えて下さる。私はその試練に応えて行かなければならない。

投稿者 abiru : 23:53 | コメント (2) | トラックバック

2006年07月02日

聖霊降臨節第5主日礼拝

なんと、この日の礼拝は原宿教会102周年記念礼拝だという。しかし特に目立ったセレモニーがあるわけでもなくいつも通りに礼拝が執り行われる。お説教の冒頭で102周年記念の事が少しだけ触れられたのみ。

原宿教会は、1904年7月2日の創立であるとのこと。自分の通った幼稚園の教会にそんなにも永い歴史があろうとは・・・。100年を超える伝道の歴史を垣間見て、少し驚く。

二日酔いのまま礼拝に参加して、変な脂汗を流しながら祈っていたのは内緒だ。
神様にはバレているとおもうけど(笑

祈り:

天に在す我らの父よ御名を賛美致します。

地球上に生きる全ての人々が、各人の信仰や教義、思想・信条、人種、政治、その他あらゆる違いを克服し、全人類の想いが一つになりますように。そして真の平和な世界が実現されますように。どうかそのために必要な知恵と勇気と強く優しい心を私たちに授け、導いてください。

この祈りを父と子と聖霊の御名によって捧げます。アーメン。

投稿者 abiru : 23:31 | コメント (0) | トラックバック

WX310Kを買いました。

約1年ぶりの機種変更です。今回はWX310Kにしました。

WX310K.jpg

実は、友人からのプッシュがあって、一瞬W-ZERO3と迷ったのですが、やはり「電話が欲しい。」という安直な理由でW-ZERO3を諦めました・・・。

お気に入りのポイントをいくつか。

・画面がきれいになってます。
・デフォルトの配色が結構見やすいかも。
・直接MIDIが再生可能でした。
・カメラが130万画素になって、やっと実用的になりました。
・USBで接続するとMass Storage Class Deviceとして認識出来る!(もうUSBメモリは不要)
・MiniSDカード対応(512MB搭載しました。)

ちょっともう、隔世の感ですね。だって、携帯電話に512MBの不揮発RAMが搭載できるんですよ!なんですか!512MBって!そんな大容量サイズは、僕が中学生の時にはHDDのサイズでしたよ。それが手のひらサイズの携帯電話の中に入っているんですから、いやぁ〜、世の中進歩してますわ〜。ほんと進歩の無いのは人間だけだわ。まじで。

その他、いろいろ理解できてない機能が山盛りなんで、しばらくはおもちゃにできそうです。

そして、我が家は、家族全員がウィルコム定額に加入完了!これで我が家はモバイル新時代に突入!

060703_0106~001.jpg

でもって、これは私の携帯電話についているモモちゃんです。色がすっかり剥げ落ちてしまって無惨な姿にはなっていますが、大学時代にはじめて所有したPHSからずっと一緒です。この写真はWZ310K付属のカメラで撮影しました。露出が結構難しいようです。

投稿者 abiru : 23:00 | コメント (0) | トラックバック