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2006年08月27日
GMailの迷惑メールフィルタがスゴイ!
GMailの迷惑メールフィルタがスゴイ!
今までThunderbirdに付属しているベイジアンフィルタや、さくらインターネットの会員向けウェブメールの迷惑メールフィルタを使ってきたけれど、いままでのどのフィルタよりも精度が高いです。しかも学習一切なしの初回から非常に高い命中率で迷惑メールをブロックしてくれます。もっとも、100%というのは不可能なので1回だけ日本語のスパムをブロックできなかったけど、今までのフィルタと比較しても、今のところは良い成績だと思う。
これで、迷惑メールとおさらば出来る生活ができるかも!
さっそくレンタルしているサーバに届くメールを全てGMailに転送するように変更し、自宅PCのThunderbirdのPOP3/SMTPの接続をGMailに変更した。多少、メールの配送に遅延が発生するかもしれんが、まあ、実用上は問題の無いレベルでしょう。
やはり、こういった学習型のフィルタは分母が大きいほど制度が上がるのでしょうね。GMailは正確な会員数を公表していないようですが、数百万人オーダーの会員がいるようですのでフィルタの学習量がケタ違いなのかもしれません。
feedpathでブログを書いてGMailでメールを読み書き・・・。なんともWeb2.0的と言っておきましょう。
投稿者 abiru : 23:21 | コメント (0) | トラックバック
聖霊降臨節第13主日礼拝
mixiで表示される自分の「最近の日記」が礼拝の話題だけになってしまいそうだったので、先週はいろいろ、礼拝以外の事を書いてみました。なんで、安心して礼拝のエントリです。
・聖書
またもや、耳の痛い内容ですね。信仰を持ち、それ以前の誤った生き方を悔い改めて新しい人として生きて行きなさい。そう言われているわけですが、自分の身に付いた悪しき慣習を拭い去ることは大変なことです。改めて自省。
ちなみにこの「エフェソの信徒への手紙」はパウロさんの名前で書かれているものの、実際には別の人が後に作成した手紙のようです。先日購入した岩波の「パウロ書簡」には、この手紙は収録されておらず、別の巻である「パウロの名による書簡」の方に収録されています。
聖書はキリスト教の教典ではありますが、聖書学として検証するのも非常に興味深い試みだと思います。
投稿者 abiru : 23:13 | コメント (0) | トラックバック
feedpathのブログエディタ
最近、feedpathのブログエディタを使い始めました。なんていうんでしょうか・・・。まあ、はやり言葉の「Web2.0」っていうヤツ?私的にも色々模索しているわけですよ。Gmailとかつかってみたりとか、自前のレンタルサーバにMovableType導入してfeedpathのブログエディタから投稿したりとか、ちょっと「Web2.0」って感じでしょ?
で今回はfeedpathのブログエディタに関する疑問
私のブログにデフォルトのままで投稿すると「改行設定」の項目が「なし」で投稿されちゃうんですよね。個人的には「改行を変換する」の状態で投稿して欲しい。なぜならそうしないと私のブログのテンプレートは文字色とかが変わってしまう模様です。
テンプレート側で対応する方法も検討したのですが、スタイルシートに対する理解が不充分で思った通りの結果を得られず。MovableType側の設定になにかあるのではないかと調査したが該当しそうな項目なし、feedpathのブログエディタ側も関連する項目を探したけれど、それらしき項目なし。
うーん、やっぱしスタイルシートでデザインを調整するのが一番現実的かな。もうちょっとしらべてみよう。
投稿者 abiru : 02:17 | コメント (1) | トラックバック
2006年08月26日
Gmailが招待制からサインアップ制へ
グーグルの「Gmail」が招待制からサインアップ制へ - CNET Japan
ええーっ!つい先日大学の後輩から招待してもらったばかりだった。もうちょっと待っていればよかったのね・・・。まぁ、別に何の影響もないんだけどさ。
ThunderbirdからGMailのアドレスに届いたメールをPOP3で受信しようと思っていろいろやっているんですが、パスワードもしくはユーザ名が正しくないと言われて受信できません。
投稿者 abiru : 11:20 | コメント (3) | トラックバック
2006年08月21日
GMailに招待して下さいませんか?
GMailのアカウントが欲しいのですが、どなたか、私をGMailに招待して下さいませんか?
このサービスがGoogleでスタートしてから既に2年近くが経過しているでしょうか。今頃になって触ってみたくなりました。どなたかGMailの招待状を持っておられる方で、私、阿蛭栄一(あびるえいいち)に招待状を送ってやっても良いよ。という心の広いお方がいらっしゃいましたら、ご一報ください。
投稿者 abiru : 11:41 | コメント (5) | トラックバック
2006年08月20日
聖霊降臨節第12主日礼拝
ブログのサブタイトルにも書いた通り、このブログは将来自分で読み返す事を目的に綴っているものです。きっと10年後ぐらいに最近の教会の話ばかり書いているエントリを読み返して「あぁ、この頃は色々迷っていたんだなぁー」とか懐かしむんだと思います。2016年のあびるさん、あなたは今でも教会に通っていますか?
というわけで、今週も教会の話題です。
・聖書
「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
私が、果たして「子供のように」純粋に神様の事を受け入れる事ができるでしょうか。難しそうです。でも私はこの教会の幼稚園に通っていたわけで、かつては何の思惑もなく「子供のように」純粋に神様の事を信じる事ができていたはずなのです。20年以上の時の流れは、あまりにも私を偏屈にしてしまったのかもしれません。
・お説教
上記のマルコによる福音書に出てくる子供たちは、神を信仰する事を理解していない存在として書かれているようです。この子供達を例えにして「無資格者への招き」と題して説教が行われました。
「無資格者」・・・。まさに私のことです。
投稿者 abiru : 22:37 | コメント (3) | トラックバック
WX310Kを買いました。2台目
いや、父の携帯電話なんすけどね。
どうやら、父の周囲でも携帯でメールを使う人が多いようです。
メールアドレスを持っていないのか?
電話だけじゃなくメールもやれ。
と周囲からプッシュされている模様でした。
父が持っているウィルコムの機種でもメールはできるのですが、古い機種だったので驚く程使い勝手が悪く、使い方を教えている私がイライラしてきたので思い切って機種変更しました。父が「お前が使ってるヤツと同じのがいい。」というので、WX310Kを購入しました。取り違える事が無いように私とは色違いのブラックにしました。
ちなみに父が大量のメールを送受信したり、カメラで写真撮りまくったりするとは考えにくかったので、SDカードは一番安い64MBにしました。
昭和17年生まれに携帯メールの使い方を教えるには、海より広い寛容な心と岩よりも強い忍耐力が必要だと思いました。
ウィルコムさん、高齢者向けの「かんたん操作マニュアル」を作ってくれませんかね?
投稿者 abiru : 20:32 | コメント (5) | トラックバック
2006年08月13日
聖霊降臨節第11主日礼拝
欠番になるのがいやなので、やはり書いておこう。礼拝に出席しなかったのではない。帰宅後体調を崩してブログを書かなかったのだ。だから実は一週間遅れで書いている。
今週は「証しによる礼拝」でした。終戦記念日も近いので牧師先生のお説教の代わりに戦争体験を持つ教会員の方に語って頂くというものです。伺ったお話の内容からは、戦前・戦中のクリスチャンの方がいかにご苦労されたかという事を痛感しました。折りしも鬼畜米英と叫ばれたご時世にその米英を初めとする西洋伝来の信仰を守るという事がどれほど厳しい批判に晒されたかは想像に難くありません。
今週の礼拝で非常に印象に残ったものを記します。
「アッシジのフランシスの祈り」
私をあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光りを、
悲しみのあるところに喜びを
もたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、
私が求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、
ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。
投稿者 abiru : 23:13 | コメント (0) | トラックバック
2006年08月06日
聖霊降臨節第10主日礼拝(平和聖日礼拝)
ちょっと気になったのですが、聖霊降臨節は何週あるのでしょうね。プロテスタントの教会でどんな教会暦が使用されるのか知識がないので、わかりません。
■戦争責任告白
今日は「平和聖日礼拝」でした。8月なので終戦記念日を受けての礼拝のようです。礼拝前に配布された資料の中に「第二次大戦下における 日本基督教団の責任についての告白」という文書がありました。現実社会の中では理想論だけでは生きてゆけません。しかし理想や信条が無くても生きて行くことはできません。歴史を俯瞰して見ることの出来ない人間の限界を痛感しました。
■聖書
教会は多くの人が集り様々な役目を分担する事で、はじめて教会として機能できる。その役目に優劣はなく不必要なものは無い。だから各人とも力を合わせて助け合い教会を運営して欲しい。そんな想いを身体を構成する各部分に例えてたとえ話をしているのだと理解しました。
■コリントの教会について
新約聖書にはコリント信徒への手紙が2通収録されていますが、どれもパウロさんからコリントのみなさんへのお小言のように読めます。コリントの教会は、そんなに問題のある運営状況だったのでしょうか。気になるところです。
投稿者 abiru : 23:14 | コメント (0) | トラックバック