2010年08月18日
必要なもの、欲しいもの、望まないもの、与えられたもの。
すごく当たり前だけど忘れやすいこと。改めて気づかされたから、自戒を込めてメモ。
必要なものは与えられるが、欲しいものが与えられるとは限らない。
時には与えられたものが望まないものに見える事さえある。
しかし、与えられたものは、どれも皆、間違いなく必要なものなのである。
欲しいと思ったが、与えられなかったものは、今の自分にとっては必要なものではなかったのだろう。しかし、それを欲しいと思ったが、結果として与えられなかったという経験自体は今の自分にとって必要な経験であったのかもしれないという点は抑えておこう。
聖書を引用するなら以下の箇所かな。
マタイによる福音書 / 6章25節〜34節「思い悩むな」
投稿者 abiru : 22:22 | コメント (0) | トラックバック
2008年05月21日
功詐不如拙誠
功詐不如拙誠
だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
(エフェソの信徒への手紙 4章25〜32)
『聖書 新共同訳』より引用
異なる2つのサイトで別々に目にした言葉が、私にはリンクしてみえた。
私に対する御言葉として心にとめよう。
投稿者 abiru : 02:53 | コメント (0) | トラックバック
2007年12月23日
受洗の時はやってきた。
本日、2007年12月23日(日)日本基督教団 原宿教会のクリスマス総員礼拝に於いて、私、阿蛭栄一は、洗礼を受けました。
以前、このブログで「それでも受洗の時はやって来るか?」というエントリを書きましたが、その時から約1年半、たしかに受洗の時はやってきました。
思い起こせば、原宿教会との出会いは、小学校に入る前の一年間だけ原宿幼稚園に通ったことから始まります。当時、まだ体も小さく、今よりも歩くことすらおぼつかない子どもだったと思います。そんな私を温かく迎えて入れてくれた原宿幼稚園での記憶は、とても良い想い出になっています。しかし卒園後、成長と共に教会から足が遠のいてしまいました。
鮭という魚は、生まれてから4年経つと生まれた河川へ戻ってくると言われていますが、私の場合、初めて神様の御言葉に触れた原宿教会に戻って来るまでに、結局、こうして二十年以上の時間を費やしてしまいました。
教会との関わりが復活するきっかけは、インターネット上で会堂が新築された、という事を知ったからでした。はじめは、ただ、新しい会堂を見てみたい、という興味本位で日曜日の礼拝に参加したのですが、何度か礼拝に出席するうちに、そこで得る充実感のようなものが、次第に大きくなっていき、今ではすっかり毎週のスケジュールとして定着しています。
「洗礼」について考えた直接的なきっかけは、「教会全体協議会」で話し合われた「聖餐・主の食卓を考える」というテーマに触れてからでした。そこで始めて洗礼というものが持つ意味や聖餐についてを知り、自分の中で考えを巡らすうちに「洗礼を受けたい」という気持ちを持つようになりました。しかし、「洗礼を受けることにしました。」という一言を言い出すきっかけを見つける事ができず、結局、一年以上にわたって態度を保留していました。その後、色々考えるうちに「洗礼を受ける理由なんて探してもだめだ。自分で決断して一歩を踏み出すしかない。」というところまで考えがまとまったのですが、それでも色々な悩みや心配があって、決断に踏み切れずにいました。
そして、十二月のある礼拝の後で土橋牧師から、「洗礼を受けてみる気はないか?」と問われ、その時、即答はできなかったのですが、帰宅する途中に「今だな。」と直感し、洗礼を受ける決断を遂にする事ができました。
何かと至らぬ部分の多い私ではありましすが、原宿教会の皆様と共ともに祈り、微力を捧げて参りたいと思いますので、宜しくお願い申し上げます。
投稿者 abiru : 23:23 | コメント (0) | トラックバック
2007年09月25日
被告人は神様?
なんというか、タイトルを見た瞬間は訴訟大国もここまで来たかという感じですね。記事を読むと、この州議員に対する疑問が山盛りになりました。
ネブラスカ州議会議員が神を提訴
http://wiredvision.jp/news/200709/2007092023.html
この議員の宗教的背景が不明であり、正確な判断は不能ですが、米国でのニュースであること、記事中の語彙から、キリスト教をはじめとする、いわゆる「アブラハムの宗教」といわれる一神教の「神」を対象に訴訟を起こしているものと想像されます。
しかし、そもそも人間が作った法律や制度の効力が神に及ぶのでしょうか。私にはそうは思えません。それに聖書に記載されている内容に従えば、神との契約を正しく履行していないのは、我々人類の方ではないでしょうか。仮りに神との間で訴訟が成立するのであれば、契約不履行で訴訟を提起され、被告となり、罪人として裁かれるべきは、我々人類の方だと私は考えます。
ちなみにこの訴訟については、記事中の後半に書かれている以下の一文を読んで少しだけ納得できた。
> ネブラスカ州のローカルテレビ局『WOWT』は、Chambers氏が訴訟を起こした背景には、
> 州法がいかなる理由でも訴訟を起こす権利を認めていることを再確認する意図があった
> と伝えている。
無論、神との契約の有効性についてもこの世的な法律の解釈だけに沿って考えれば、当事者間の合意が無いとか、無茶苦茶な理由を付けて契約無効を主張するという考え方もあると思うけど、これはこれで、これまでの人類の歴史を否定する事にもなりかねないトンデモ理論ではある。
法律と神学の両方を学んだ人は少ないかもしれないけれど、人間と神様の関係に無理矢理法律を当てはめて考えると、頭の体操としては、なかなか面白いかもしれませんね。
投稿者 abiru : 00:58 | コメント (2) | トラックバック
2007年09月16日
聖霊降臨節第17主日礼拝
ひさしぶりに礼拝に関するエントリです。知らない人が読んだら、独り言みたいなエントリになっちゃったので、興味の無い方は読み飛ばしてください。
体調不良で主日礼拝を欠席しました。所用で礼拝を欠席する時は「来週もあるし。」などと言っているのに、出席するつもりが体調不良で出席できないと非常に残念に感じます。なんと勝手な考えでしょうか。自分の信仰の弱さを恥じ入るばかりです。確かに主日礼拝は大切な聖礼典であり、多くの会衆とともに一カ所に集まって共に祈る事には大きな意味があると思いますが、祈る事は礼拝でなくても、いつでもできる事を私は知っています。日々の祈りが足りない事を痛感しています。最近はiPodを使った聖書の読み進めも中断しています。先週一週間の私の歩みを悔い改めます。どうか私が犯した多くの罪に赦しを与えてください。そして、与えられた新しい日々を御業を現す器として力強く歩めますように。そして願わくば、私の働きが世のために役立ちますように。
投稿者 abiru : 23:59 | コメント (2) | トラックバック
2007年02月11日
降誕節第7主日礼拝
久しぶりに礼拝の名称をタイトルにしたエントリを書いてみました。
今週は、友人と待ち合わせして礼拝に出席しました。礼拝の説教中にあくびをしていた事を友人に指摘される始末です。神様、ダメ求道者ぶり全開の罪深き私をどうかお赦してください。しかも来週は、またもやスキーで欠席です。本当にごめんなさい。赦してください。
礼拝後、友人と共にGoro's Dinerに行って食事をする。ここのハンバーガーは旨いのだ。マクドナルドばかりを食べ慣れてしまうとハンバーガーが安っぽいファーストフードだと考えがちだが、ここのハンバーガーを食えば、立派な料理である事を再認識出来るはずだ。お勧め!
その後、表参道を冷やかしたりしながら、渋谷へ移動し、こどもの城で水泳をする。
ぐったりした後で空腹を満たすため渋谷の文教堂書店の上にある居酒屋「北海道」に入るものの、どのメニューも「えせ北海道」ぶりが鼻についてがっかり.。。。
ここでは友人と呑みながら、お互いの趣味・嗜好についてかなりディープな話をする。かなりお互いの理解は促進されたと思われるが、同時に友人を失望させた事もまた事実である。許せ友よ。これが等身大の私なのだ。
「俺には、そんな自分にないキャラを何年間も演じ続けることなんて不可能なんだよぉぉぉー!!!」
自分のヘンタイキャラを思う存分、友人の前でぶちまけたことで、かなーりスッキリ。ふぅ。
次回、この友人と呑むときにはお互いを「ヘンタイ♪」と罵り合うことになるであろうが、それもまた友人であればこそ可能なアソビということでご理解頂きたい。
なんだか、関係者と当事者にしかわからんエントリだが、お許し願いたい。ま、自分用ブログなんで。
投稿者 abiru : 23:54 | コメント (0) | トラックバック
2006年12月25日
クリスマスおめでとうございます。
昨日24日(日)は、終日原宿教会にいました。今年は、クリスマスイブと日曜日が重なったので、クリスマス総員礼拝から、その後の愛餐会、夜のキャンドルサービスと一日がクリスマス一色でした。
実は、今回のような正統派のクリスマスを過ごすのは幼稚園の時以来なので、二十数年ぶりです。
元来、冬至のお祭りだったものが、後のキリストの生誕を祝うお祭りになったのがクリスマスの起源だそうです。「私もイエス様と同じ12月生まれだ。」と喜んでいたんですが、聖書のどこを読んでも、それが12月25日だったという記載はありません。どうやら、実際の生年月日については諸説あるようで、さまざまな伝統と歴史的経緯で12月25日に生誕を祝うという事になっているようです。日本の「建国記念の日」みたいなノリですかね。
クリスマス総員礼拝は、聖書の講読がクリスマスにちなんだ箇所(マタイ福音書2:1)であることと、アドベントで灯された4本のキャンドルがある以外は通常の礼拝でした。あ、月初の礼拝でないのに聖餐式が執り行われたのもクリスマス仕様なんでしょうか?
礼拝後の愛餐会では、壮年会(*)の寸劇に駆り出されて「学生A」を演じる。同志社大学では有名な「血染めの杖」とか「自責打掌事件」と呼ばれる逸話らしい。今回の寸劇出演で初めて新島襄という人の事を知る。自分が演じた学生Aは名前もなくセリフも一言だったが、気分だけは「自分の役は徳富蘇峰だ。」と言い聞かせて密かに楽しんだ。個人的にはもう少し一般的な演目をやった方が良いと思ったのが正直な感想。(汗) だって、同志社以外の人は多分ピンと来ないハズ。まぁ、牧師先生が同志社出身だし、教会員の方の中にも同志社出身の人がいるので、いいのかな。。。
※原宿教会では若手の男性教会員が少ないのか青年会は無いようです。
愛餐会は15時には片付けまで終わってしまい、19時の燭火賛美礼拝(キャンドルサービス)までは、何もする事がなかった。みんな一旦帰宅した人もいたようだけど、私は教会に残って時間をつぶしてました。
聖歌隊の練習を聞きながら、礼拝堂の大きな十字架の下に座って、柳生直道訳の「新約聖書」を読み耽る。現在は使徒言行録のはじめの方、なんとも贅沢でゆったりとした時間だった。至福の時。。。
こんな事を書いていると、またぞろ、各方面から、「阿蛭はどうしちゃったの?」という声が聞こえてきそうだが、事実なので、ありのままに書く。別に阿蛭は、いつもの通りです。なんで教会に通っているのかはご想像にお任せします。(笑) ただ確かなことは、「導かれた。」ということ。それだけ。それ以上の理由付けは、あまり意味が無いように思える。
18時にマイミクのよもぎさんと待ち合わせて燭火賛美礼拝に参加、高校時代の友人Kさんも来てくれて3人で礼拝に臨む。
蝋燭が点灯され、照明が落とされて、いつもとは違う雰囲気で礼拝が始まる。途中、マタイ福音書2:1の生誕の場面が朗読されている最中に礼拝に来ていた赤ちゃんが泣き出したのは、神様のちょっとした演出であったと信じたい。
この日は友人が二人も来てくれて礼拝に出席してくれた。このような素敵な機会を与えてくれた神様と神宮前までわざわざ来てくれた友人二人に心より感謝。
その後友人とスターバックスでお茶して、別れてから、もう一度教会の近くへ戻って幼稚園の時の同級生がやっているバーにのみに行く。
帰宅後、疲れが出て爆睡。
以上、私の28年の人生でもっとも充実したクリスマスでした。
私たちを常に支え、導き、共にいてくれる神様に深く感謝します。
投稿者 abiru : 23:59 | コメント (2) | トラックバック
2006年12月10日
ダヴィンチコード
今更ながら小説を読み、DVDで映画を見ました。体調を崩して礼拝に出席出来なかったのにベッドの上でダヴィンチコードを鑑賞しているのですから、厳格なクリスチャンの人なら怒り出しそうですね。
この作品、良くできた映画だと思います。数週間前に小説も読了したのですが、原作の魅力を可能な限り損なわないように努力している作品だと思います。この映画を見た後でもう一度原作小説を読めば、また違った感想が得られるでしょう。
原作と映画の関係とはこのような良好な関係でありたいものですね。誰か「亡国のイージス」を映画化した人にこの作品を見せてあげてください。(笑
宗教を題材にした作品ですので、内容に関しては賛否両論あるとは思いますが、個人的には、非常に面白く、良く考えられたフィクションだと思います。作品の後半で語られる「何が真実か?」ではなく「何を信じるか?」が重要であるというラングドン氏の主張には共感できるものがありました。
確かに物事を科学的に分析し理解する際には、「何が真実か?」という部分が重要になりますが、「信仰」という非常に個人的なものには、「科学的な分析」がそぐわない場合もあるのではないかと思います。
個人的には、クリプテックスが入れ子になっているというエピソードが省かれているのが残念でした。
投稿者 abiru : 23:42 | コメント (2) | トラックバック
2006年09月17日
聖霊降臨節第16主日礼拝
さて、昨日はどこへも出かけずに「身体を癒す日」でしたので、今日は教会に行って心を癒す日という事にしました。今日は特別礼拝の日で桜美林中学・高校でチャプレンとして働いておられる堂本陽子牧師のお説教でした。まるでアナウンサーのような良く通る声と滑舌の良い口調でのお説教でした。
お説教の中で印象に残ったのは以下のようなエピソードでした。
・生物学的に見ると人間は未熟児の状態で生まれて来る(動物には産後すぐ歩けるものもある。)
・赤ん坊の泣き声は生きていくために母親を求めている
このお話を聞いていて思ったのは、もしかしたら、祈る事って赤ん坊が母親を求めて泣くように、私たちが神様を切望する瞬間の叫びなのかなぁ。ということでした。
それから、礼拝に出席していて「この礼拝をストリーミングで配信出来ないかなあ。」というような事を漠然と考えました。音声だけでもいいので・・・。こんな取り組みも以前、教会員の人と話した「宣教のためのウェブ活用法」に繋がるのではないだろうか。
雑記
礼拝後、表参道の祭礼に顔を出して挨拶
こどもの城へ行って水泳
とにかく自分に癒しを与える連休
投稿者 abiru : 23:00 | コメント (0) | トラックバック
2006年09月10日
ホントごめんなさい×2 in あざみ野
高校時代の友人T夫妻が引っ越ししたあざみ野のマンションに突如お邪魔する。ひとさまのお宅に来ているとは思えぬ程にくつろがせて頂いた。いや、くつろぎ過ぎでした。ホントごめんなさい。
本来の目的は、以前、私が友人に進呈した中古PCをiTunes専用マシンに仕立て上げてくる事であったが、ストレージ関連のデバイスがBIOSレベルで認識したり、しなかったり。というような悲惨な状態であった。おかしいな。友人にあげる直前までは正常稼働していたのに・・・。結局友人に粗大ゴミを進呈した形になってしまった。こっちの件についても、ホントごめんなさい。
聖霊降臨節第15主日礼拝は欠席。
投稿者 abiru : 23:28 | コメント (0) | トラックバック
2006年09月06日
あれ?
「聖霊降臨節第13主日礼拝」っていうエントリが2つもある。
コピペって怖いね。orz
というわけで修正
投稿者 abiru : 22:01 | コメント (0) | トラックバック
2006年09月03日
聖霊降臨節第14主日礼拝
いつも聖書の箇所のリンクと簡単な感想ばかり書いているので、少しいつもとは違う事を書いてみようと思います。それは、教会のホームページについてです。
礼拝後、ある教会員の男性とお話しをする機会を得ました。色々伺っていると教会のホームページをリニューアルした方がいいのではないかと考えているものの、どのようなコンテンツにするのが適当なのか、まだ考えている最中であるとの事でした。
その方も仰っていたのですが、教会のホームページを見に来るユーザには以下のような人々が想定されます。
その教会の教会員の人
教会に来る事ができない人
キリスト教に興味のある人
このように色々な立場の人に対して的確に情報を発信するサイトを作る事はなかなか、コツがいる作業だと言えます。しかも、その内容は「宗教」という慎重な取り扱いを要するものなのですから簡単な事ではありません。ですから、現時点ではウェブを通じて宣教をするという試みは、まだ充分にその方法論が確立されていない分野だと考えるのが妥当なのかもしれません。その事を踏まえてウェブ上にあるキリスト教会のホームページを見て廻ると、どこの教会のコンテンツも無難な内容に終始しており、コンテンツにあまり大きな差が見られないという事実も納得できます。
そのような中で一つ参考になるかもしれないページを紹介します。
クリスチャンのあなたのためのホームページ入門
http://www.hyuki.com/chrpage/index.html
このサイトは、私が技術者として尊敬している結城浩先生のページです。(面識は皆無ですが、著書のすばらしさに感銘を受けて勝手に「先生」と読んでいます。)先生はクリスチャンで、しかもコンピュータのエンジニアという私にとっては、心の師のような方なのです。
インターネットやコンピュータは、私たち人間が考えたものであり、神様の御業の前には何の意味をも成さない小さなものかもしれませんが、そのテクノロジが神様の大いなる意思のために少しでも役立てられるのであれば、技術者の一人として望外の喜びと言えるでしょう。
投稿者 abiru : 17:04 | コメント (3) | トラックバック
2006年08月27日
聖霊降臨節第13主日礼拝
mixiで表示される自分の「最近の日記」が礼拝の話題だけになってしまいそうだったので、先週はいろいろ、礼拝以外の事を書いてみました。なんで、安心して礼拝のエントリです。
・聖書
またもや、耳の痛い内容ですね。信仰を持ち、それ以前の誤った生き方を悔い改めて新しい人として生きて行きなさい。そう言われているわけですが、自分の身に付いた悪しき慣習を拭い去ることは大変なことです。改めて自省。
ちなみにこの「エフェソの信徒への手紙」はパウロさんの名前で書かれているものの、実際には別の人が後に作成した手紙のようです。先日購入した岩波の「パウロ書簡」には、この手紙は収録されておらず、別の巻である「パウロの名による書簡」の方に収録されています。
聖書はキリスト教の教典ではありますが、聖書学として検証するのも非常に興味深い試みだと思います。
投稿者 abiru : 23:13 | コメント (0) | トラックバック
2006年08月20日
聖霊降臨節第12主日礼拝
ブログのサブタイトルにも書いた通り、このブログは将来自分で読み返す事を目的に綴っているものです。きっと10年後ぐらいに最近の教会の話ばかり書いているエントリを読み返して「あぁ、この頃は色々迷っていたんだなぁー」とか懐かしむんだと思います。2016年のあびるさん、あなたは今でも教会に通っていますか?
というわけで、今週も教会の話題です。
・聖書
「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」
私が、果たして「子供のように」純粋に神様の事を受け入れる事ができるでしょうか。難しそうです。でも私はこの教会の幼稚園に通っていたわけで、かつては何の思惑もなく「子供のように」純粋に神様の事を信じる事ができていたはずなのです。20年以上の時の流れは、あまりにも私を偏屈にしてしまったのかもしれません。
・お説教
上記のマルコによる福音書に出てくる子供たちは、神を信仰する事を理解していない存在として書かれているようです。この子供達を例えにして「無資格者への招き」と題して説教が行われました。
「無資格者」・・・。まさに私のことです。
投稿者 abiru : 22:37 | コメント (3) | トラックバック
2006年08月13日
聖霊降臨節第11主日礼拝
欠番になるのがいやなので、やはり書いておこう。礼拝に出席しなかったのではない。帰宅後体調を崩してブログを書かなかったのだ。だから実は一週間遅れで書いている。
今週は「証しによる礼拝」でした。終戦記念日も近いので牧師先生のお説教の代わりに戦争体験を持つ教会員の方に語って頂くというものです。伺ったお話の内容からは、戦前・戦中のクリスチャンの方がいかにご苦労されたかという事を痛感しました。折りしも鬼畜米英と叫ばれたご時世にその米英を初めとする西洋伝来の信仰を守るという事がどれほど厳しい批判に晒されたかは想像に難くありません。
今週の礼拝で非常に印象に残ったものを記します。
「アッシジのフランシスの祈り」
私をあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光りを、
悲しみのあるところに喜びを
もたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、
私が求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、
ゆるすからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。
投稿者 abiru : 23:13 | コメント (0) | トラックバック
2006年08月06日
聖霊降臨節第10主日礼拝(平和聖日礼拝)
ちょっと気になったのですが、聖霊降臨節は何週あるのでしょうね。プロテスタントの教会でどんな教会暦が使用されるのか知識がないので、わかりません。
■戦争責任告白
今日は「平和聖日礼拝」でした。8月なので終戦記念日を受けての礼拝のようです。礼拝前に配布された資料の中に「第二次大戦下における 日本基督教団の責任についての告白」という文書がありました。現実社会の中では理想論だけでは生きてゆけません。しかし理想や信条が無くても生きて行くことはできません。歴史を俯瞰して見ることの出来ない人間の限界を痛感しました。
■聖書
教会は多くの人が集り様々な役目を分担する事で、はじめて教会として機能できる。その役目に優劣はなく不必要なものは無い。だから各人とも力を合わせて助け合い教会を運営して欲しい。そんな想いを身体を構成する各部分に例えてたとえ話をしているのだと理解しました。
■コリントの教会について
新約聖書にはコリント信徒への手紙が2通収録されていますが、どれもパウロさんからコリントのみなさんへのお小言のように読めます。コリントの教会は、そんなに問題のある運営状況だったのでしょうか。気になるところです。
投稿者 abiru : 23:14 | コメント (0) | トラックバック
2006年07月30日
聖霊降臨節第9主日礼拝
一部の方々から「もう礼拝以外のエントリは書かないの?」という声も聞かれておりますが、決してそんなつもりはありません。ただ、他の事を書く時間がないだけです。どうかご勘弁を・・・。ホントに礼拝や信仰に関するネタだけでブログを書くのであれば、タイトルを「ダメ求道者のブログ 〜俺、姦淫するなかれ・・・。〜」とでも変更しますかね(笑
さて、今日も遅刻せず教会に到着、本日の聖書の講読分は前日に先読みしておきました。子供の時にこれぐらい熱意を持って勉強できていたら、私の人生もう少し違うものになっていたかもしれませんね。
■聖書
今回の箇所でパウロさんが何を言いたいのか理解するのはなかなか難しい。
神様から頂戴した恵みを無駄にしてはいけません。まして自分達がやっている事(信仰)が周囲の人から避難されることの無いようにしなければいけない。どんな苦悩に遭っている時であっても純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉と神の力と、左右の手に持っている義の武器により、これに立ち向かい神の 僕(しもべ)である私たちの姿を体現しなければいけない。
そんな風に受け取りました。ちなみにこの内容に対する牧師先生のお説教の題名は「神の逆説」・・・。先生難し過ぎます。ボクには・・・。
■訳文について
個人的には、今回の箇所は翻訳にも問題があると感じました。無論、私はギリシャ語が読めるわけではないけれど、牧師先生がお説教の中で「ある聖書学者は・・・。」といって引用していた訳文は私たちの言葉に非常に近く、この文章の意図するところが容易に理解できたように感じました。礼拝後書店に行って口語訳、文語訳、新改訳と色々な聖書の翻訳を読んでみましたが、先生が引用されたようなわかりやすい文章のものはありませんでした。
来週、教会に行ったら牧師先生に出展を聞いてみようと思います。
■書店にて
渋谷の文教堂書店とブックファーストという大型書店を巡って宗教書のコーナーで色々資料を物色しました。なかなか「コレだ!」思える良い書籍はないものですね。思わず「まんが聖書物語」を買ってしまいました。最初は漫画なんてとバカにしていたのですが、なかなか面白いです。やはり古典中の古典、人類最大のベストセラーと言われるだけの事はあります。折りしも中近東で戦火が上がっている昨今、勉強のために読み進めたいと思います。
■今後、休日は書店で過ごそう。
ちなみに文教堂書店の2Fにはカフェが併設されており、買った本をその場で心ゆくまで読む事ができます。サイコーです。ブックファーストは店内にカフェこそありませんでしたが、店内の各所に椅子が置いてあり、心ゆくまで立ち読みならぬ、座り読み(!)ができます。なんて良い書店なんでしょう。私なんて思わず当初は買う予定の無かった岩波の「パウロ書簡」を購入してしまいましたよ。
投稿者 abiru : 23:40 | コメント (6) | トラックバック
2006年07月23日
聖霊降臨節第8主日礼拝
今週は遅刻することなく礼拝に出席、ちゃんと10:30の鐘の音も聞くことができました。
さて、先日は「信仰はアクセサリではない。」という批判を受け、はからずも自分の信仰が試される機会を得たわけですが、今週は意外にも自分が通う教会で自分の信仰について深く考えさせられる機会を与えられました。
■今日の聖書
コリント信徒への手紙一 11:27〜34(新p.315)
正直に言ってこの部分だけを読むと、「???」な感想を持ちますが、11章をはじめから読んでみるとパウロさんがコリントにいる信徒の皆さんに何が言いたいのかが少し見えてきたように感じました。きっとパウロさんが言いたかった事は、「教会にはいろんな人がやってきますから、常に自分以外の教会にやって来る人たちの事を思い遣り、配慮をして下さい。」という事なのだと思います。先日の「コリント信徒への手紙一 6:13〜20(新p.306)」といい、現代に通ずる部分が多いですね。パウロさんの仰る事は・・・。
■教会全体協議会へ出席
礼拝後に全体協議会へ参加させて頂きました。テーマは「”聖餐・主の食卓”を考える」でした。教会員でもなく、洗礼を受けていない私には聖餐や洗礼の意味について考える良い機会になりました。この件については、まだ自分の考えが充分に纏まっていません。いずれ時期がきたら改めてこの件について書きたいと思います。
■祈り
ご在天の父なる神様、御名を賛美致します。
洗礼も受けておらず、信仰告白もしていない私であっても日々の糧を与え、大いなる愛の中に生かして下さる事に心より感謝致します。
あなたの導きによって同じ教会に集められている人たちの中にも様々な想いや意見があるという事を知りました。多くの人が集まる教会であればこそ、意見の相違や、時には対立もあるやもしれません。しかし、私は信じています。どんなに意見の相違や対立があっても、祈りのうちに冷静な議論を積み重ね、合意を育んでいけば必ずしや皆が心を一つにして力を合わせる事ができると言う事を。
世の中には様々な意見があります。どうか、その中からあなたの御旨に叶うものを選び導いてください。今は人から認められなくとも、それがあなたの意志に沿うものであれば守られると信じます。もし私の考えがあなたの意志にそぐわないのであれば、懲らしめ、そして正しい道への導きを与えて下さい。
この祈りを父と子と聖霊の御名によって捧げます。アーメン。
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2006年07月16日
聖霊降臨節第7主日礼拝
先週は、財布を紛失するという不測の事態のために礼拝を欠席しました。
今週こそは!という事で礼拝に出席しましたが、約5分ほど遅刻したことは内緒です。(笑
遅刻したので、10時30分に鳴る教会の鐘の音は聞く事ができませんでしたが、祝祷を受ける事はできたので、自分としては、とても安心しました。
さて、このブログで自分の信仰について記述するようになってから、諸処で波紋を呼んでいる部分もあるようですが、今週も恐れる事無く書いていきます。不快に思われる方は読み飛ばしてください。なんせ私の独り言なんで。
今週の講読は「ガラテア信徒への手紙5:2〜11(新p.349)」でした。
正直に言って・・・。
・聖書の該当箇所に書いてある内容
・お説教のタイトル「律法主義からの自由」
・牧師先生がお話になった内容
・聖書の小見出しのタイトル「キリスト者の自由」
これらの関連性が、今ひとつ理解しきれませんでした。まだまだ、勉強が足らないようです。(汗
聖書のなかでパウロさんは、イエス様の教えを信じているにも関わらずユダヤ教の風習である割礼を行う人たちに対して以下のように強く抗議しています。
「割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」
「そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」
自分の理解が正しいか判りませんが、きっとパウロさんがこのガラテア教会の人たちへの手紙で伝えたかった事は・・・。
・私たちの信じる神様は割礼の有無で人を区別する事は無いから安心しなさい。
・「隣人を自分のように愛しなさい」という教えを守れば律法全体を厳守するのと同じである
・だから律法の全てを厳守するのではなく、神の教えに基づいて生きていきましょう。
ということなのかなぁ〜っと考えました。
きっと、パウロさんがこのエントリをお読みになったら、「お前、全然判ってないよ。」と落胆されるかもしれませんね。(笑) このエントリに対するパウロさんのコメントを切望します。(←コメントが来るわけね〜だろ!
追伸:財布は前日に自宅の前まで車で送って頂いた際に車内で落としていたようで車の所有者の方が発見して下さいました。
祈り:
御在天の父なる神様、御名を賛美致します。
不自由な身体を持ってこの世に生まれてくる子供たちがいます。そのなかには親・兄弟や、医師、その他多くの人たちの助けが無くては命を保つことすらできない子もおります。
そして、そのような子らに少しでも自分で生きるための力を身に付けさせようと努力する、ある人がおります。私もその人の努力によって生きる力を身に付けた子供の一人です。しかし、その人の取り組みは周囲の人々には驚く程に理解されておらず、その人に協力する者もなく、その方は今日も孤独な戦いを続けていらっしゃいます。しかし、その方も年齢を重ねているので、あと2年もしないうちにその取り組みが続けられなくなる予定です。
医学の進歩でこれまでは助からなかった多くの命が助けられております。しかし、その結果、不自由な身体を持ったまま、この世に生きている多くの子がおります。現在の医学は助けた後の命に対してあまりにも冷淡です。身体機能を獲得するための適切な治療や訓練も受けられないままに放置されていると言って過言でない状態があります。
私たちは微力ながら、この現状を改善するための取り組みを始めました。しかし、多くの人間が様々な想いを携えた状態で関わっているために想いを一つにして力を結集する事ができずにおります。
長々と書いてしまいましたが、全能の父なる神様は、私のこの悩みと思いと状況とを全てお判りになっているはずです。どうか、この取り組みに参加する全ての者が想いを一つにして、その力が正しく結集され、不自由な身体を持ってこの世に生きる全ての人々が、健やかに生きていけるような状況を実現できるようにお力をお貸しください。
この祈りを父と子と聖霊の御名によって捧げます。アーメン。
投稿者 abiru : 19:37 | コメント (1) | トラックバック
2006年07月02日
聖霊降臨節第5主日礼拝
なんと、この日の礼拝は原宿教会102周年記念礼拝だという。しかし特に目立ったセレモニーがあるわけでもなくいつも通りに礼拝が執り行われる。お説教の冒頭で102周年記念の事が少しだけ触れられたのみ。
原宿教会は、1904年7月2日の創立であるとのこと。自分の通った幼稚園の教会にそんなにも永い歴史があろうとは・・・。100年を超える伝道の歴史を垣間見て、少し驚く。
二日酔いのまま礼拝に参加して、変な脂汗を流しながら祈っていたのは内緒だ。
神様にはバレているとおもうけど(笑
祈り:
天に在す我らの父よ御名を賛美致します。
地球上に生きる全ての人々が、各人の信仰や教義、思想・信条、人種、政治、その他あらゆる違いを克服し、全人類の想いが一つになりますように。そして真の平和な世界が実現されますように。どうかそのために必要な知恵と勇気と強く優しい心を私たちに授け、導いてください。
この祈りを父と子と聖霊の御名によって捧げます。アーメン。
投稿者 abiru : 23:31 | コメント (0) | トラックバック
2006年06月25日
聖霊降臨節第4主日礼拝
今日は、いつもと違って華陽教会の須藤牧師のお説教でした。いつもの土橋牧師とは違う雰囲気のお説教を聞くというのも新鮮な感じを受けました。そのお説教の中でも面白かったのが、中古車のたとえ話・・・。
私は、きちんとキリスト教の教えを勉強していないので正しい理解になっていないかもしれませんが、キリスト教では、自分の肉体は神様から授かった物なので、粗末にしてはいけないという考えがあるようです。
須藤牧師の話を私は以下のように理解しました。
人間が神様のもとへ召されると新しい身体(永遠の魂のことかな?)を与えてもらえる。だからといって今、与えられている身体を粗末に扱っていいというわけではない。これは中古車の下取りと同じ理屈である。今使っている身体を大切に扱えば車の下取りと一緒で新しい身体を与えられる時により良い結果を生むことになる。
と、まあ私の理解はこんな感じ。
ようするに自分の身体と言えども神様に与えて貰ったものなので、自分の好き勝手にしてはいけない。大切に使いなさいという事らしい。日々不摂生と暴飲暴食・飲酒過多を繰り返す私には耳が痛すぎるお話しでした・・・。
須藤先生ありがとうございました。
投稿者 abiru : 23:51 | コメント (0) | トラックバック
2006年06月21日
それでも受洗の時はやって来るか?
先日書いたエントリ「耳も心も痛いです。」に大変興味深いコメントを頂戴したので、そのその事に触れたいと思います。以下はコメントのやりとりです。
私:「ちなみに洗礼は受けていません。今後もおそらくは受けないでしょう。浄土宗の檀家である実家へのせめてもの仁義です。両親が亡くなった後なら、受洗するかもしれません・・・。」
このように私が書いた事に対して以下のようなコメントを頂きました。
まきねえさん:「受洗は、きっと、その時がやってくると思います。私は、洗礼、堅信と受けていますが(家族では、私と娘だけです)あまり、あれやこれは考えていません。極端な話し、お墓のことだとか......。決して、敬虔なクリスチャンとは言えませんが、やはり、信者であることは私の成分そのものです。私は、お寺の多い寺町近くに育ち、両親はクリスチャンではありません......それに、仏教は非常に身近なものです。それでも、受洗の時はやって来ました。」
私は以下の一言に「ハッ!そうなのか!」となりました。
「それでも、受洗の時はやって来ました。」
自分で洗礼を受けるとか、受けないとか考えているうちは、まだ、その時なのではないかもしれません。本当に洗礼を受けるべき状況になれば、その時はきっと、洗礼を受けるとか、受けないとか考えたり、悩んだりしているのではなく「洗礼は受けるもの。」というふうに当たり前の存在として認識しているのかもしれません。
考えてみれば、私が教会に通い出したきっかけもそうでした。かつて自分が通っていた幼稚園の教会が建て替えられたと聞き、「新しい建物が見たい」というだけの理由で行った礼拝が、いつのまにか習慣になりつつあります。別に強く救いを求めていたわけではありませんし、もともと信心深い方でもありません。気がつかないうちに、なんとなく教会に足が向くような状況が周りに醸成されていたように感じます。まるでそれが全て必然であったかのように・・・。ホントはここで「神様に導かれた。」とでも表現すれば格好いいのかもしれませんが、そんな感じはあまりなく、気がつくと私が進む先に教会が待っていてくれたという感じでしょうか。
いずれにしても、私が将来洗礼を受けて自他共に認められるクリスチャンになるかは、神様が決めて下さるはずです。神様が私に洗礼を受けさせた方が良いとお考えになるのであれば、きっと受洗の時がやってくることでしょう。それまでは、必要以上に悩んだりせず御心に身を委ねる気持ちでいようと思います。
投稿者 abiru : 20:13 | コメント (0) | トラックバック
2006年06月11日
聖霊降臨節第2主日礼拝
書いてなかったので、4日も経過してからエントリ作成してます。
「聖霊降臨節第2主日礼拝」・・・。日本語で表記すると重い感じがしますね。「ペンテコステ」とカタカナで書いた方がすきかも・・・。
で、この日の原宿教会は大人と子供の合同礼拝でした。日頃はCSの方に出席しているガキンチョどもお子様たちが私たちと一緒に礼拝に参加してました。
投稿者 abiru : 20:38 | コメント (0) | トラックバック
2006年06月08日
耳も心も痛いです。(汗
新約聖書の一片を読んでいて、こんなにも心が痛むとは・・・・。(冷汗
2000年近く前に書かれた文章が、昨日の自分の行いを戒める。改めて聖書の奥深さに感嘆。。。
(コリントの信徒への手紙一 6章13〜20)
『聖書 新共同訳』より引用
食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
投稿者 abiru : 02:39 | コメント (3) | トラックバック
2006年06月04日
ペンテコステ礼拝
ども!スキーシーズンが終わってからというもの、神様の話題ばかりをブログに書いているあびるです。正直言って自分でも戸惑っているのです。今回も神様に関するエントリです。興味の無い方は、どうぞ読み飛ばして下さい。
※「ブログにおける一番の読者は未来の自分をである。」が持論です。最近のエントリは自分以外の方には興味無い内容ばかりかもしれません。ご容赦ください・・・。
イースター(復活祭)という言葉は知っていましたが、「ペンテコステ」という言葉は、恥ずかしながら今回初めて知りました。詳しくはリンク先のwikipediaのページをご覧下さい。
先々週、祖母の様態が良く無いという一報を受けた時、祖母が「早くお迎えが来ないものか。」と嘆いていると聞き、その次の日曜日に原宿教会で「死を待ち望むのでは無く生きる事に感謝して残された時間を過ごせるように祖母に力をお与え下さい。」と祈りました。その結果、神様は私の祈りを聞いて下さり、祖母は、だるま軒のラーメンを食べて少し元気になったのか、「さっぱりお迎えが来ないので、もう少し生きてみることにしようかな。」と言ったそうです。
この出来事に感謝するため、今日は礼拝に行って祈りの中で神に感謝の言葉を述べました。
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今日の祈り:
天に在す我らの父よ御名を賛美致します。
神様のお導きにより、祖母は再び生きる望みを見い出す事ができました。
祖母に生きる力を与えて下さった事を深く感謝致します。
人がいつ天に召されるかは神様がお決めになることです。その時が来るまで
祖母が生きる事に感謝して、生きる事に喜びを感じて過ごせるよう、これからも
祖母と私たちをお導きください。
また、私のような自らの信仰に一抹の不安と疑念を抱えたまま祈っている者
の願いをも聞き入れて下さり、その御業を私の前に示して下さった事を深く感謝致します。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって捧げます。
投稿者 abiru : 23:11 | コメント (1) | トラックバック
2006年05月21日
復活節第6主日礼拝
原宿教会の礼拝に参加してきました。
なんか、毎回このエントリを書いていますね。このエントリを書かなくなったら、それは私が教会に行かなくなったか、もしくは教会に行く事がブログに書くほど事でも無いぐらいに日常化したのだと思って下さい。
今日は、念願であった幼稚園時代にお世話になった先生に逢う事ができた。だいぶお年を召されて小さくなってしまった印象を受けましたが、入院されていたという言葉とはうらはらに思いの外お元気そうでした。賛美歌を歌う声は非常に力強くて懐かしい気持ちになりました。
今日は初めて教会で祈りました。
一昨日、札幌の祖母の様態が芳しくないとの連絡がありました。母は昨日から札幌に行っています。叔父の話ではだいぶ弱っているようで、「苦しいので早くお迎えが来ないものだろうか。」と弱音を吐いているそうです。来週は私も札幌に行って祖母の様子を見て来ようと考えています。
自分の祈りを文章にしてブログに書くという行為を神様が良いとお考えになるか否かは、私にはわかりませんが、自分の祈りを確かなものとする為にここに書き記したいと思います。
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天にまします我らの父よ御名を賛美致します。
私の祖母は今、病の床にあって苦しんでおります。
その苦しみ故に生きる事への想いを弱くしており、
早く天に召されたいと言っています。
どうか祖母に力をお与え下さい。残された時間を精一杯
生き抜くための心の支えをお与え下さい。死の望むのでは
なく、生きる事に感謝して残された時間を過ごせるように
祖母に力をお与え下さい。
この祈りをイエス・キリストの御名によって捧げます。
投稿者 abiru : 23:17 | コメント (2) | トラックバック
2006年04月30日
今週も原宿教会の日曜礼拝に参加
今週も原宿教会の日曜礼拝に参加してきました。
クリスチャンではない私が日曜日の午前中に教会に足が向くというのは、それだけ教会に人の心を惹き寄せる魅力のような物があるのでしょうか。いやまぁ、単に幼稚園の時にお世話になった先生に逢いたかっただけなんですけどね・・・。
でも、私が会いたかった先生は、つい先日退院されたばかりで療養中のため教会にはいらっしゃっていないとのこと。少し残念でした。
しかし、こうして礼拝に参加するというのも、なかなかいいものですね。日曜日の朝に起きて教会に行き、清らかな気持ちでお説教に耳を傾けるというのも、遊びに行くのとは別の心のリフレッシュができます。しばらくは礼拝への参加がマイブームになりそうです。
来週は教会のお庭でガーデンパーティのようなものが、開催されるとのこと。なにやらおいしいものも出るそうです。来週も行っちゃおうかな(笑
とまあ、こんなふうに場所や、人や、食べ物などに引き寄せられながら教会に通ってみたりしています。(汗
投稿者 abiru : 23:05 | コメント (1) | トラックバック
2006年04月16日
原宿教会の礼拝に出席
今日は、いつもより少しだけ早く起きて、自分の出身である原宿幼稚園のある原宿教会に行ってきました。私はキリスト教の信徒ではないけれど、ここに併設されている幼稚園に一年間だけ通った事があります。なので礼拝に参加するといっても信仰心かたというよりかは、そこに残る懐かしさを求めてという感じでした。建物は数年前にすっかり建て替えられていたので、自分が通った頃の面影は全くありませんでしたが、そこにいらっしゃる牧師さんや職員の方々は私の事を憶えて下さっていて、とても懐かしかったです。たまたま参加した礼拝はイースターの礼拝であったため、礼拝後の愛餐会でお食事まで頂いてしまい、ちょっと申し訳ない感じもしました。
また来週も行ってみようかな・・・。
牧師さんと話しているときにおっしゃった「いやぁ、見違えたよ。」という言葉が「見損なったよ。」と一瞬聞こえたのは聞き間違いであったと信じたい。いや、もしかしたら、あれは私の自堕落な日常を悲しまれた主の声だったのかもしれない。思い当たる事が多すぎて何を懺悔すれば良いのかすら迷ってしまう自分が悲しい。
明日からは、もうちょっと正しく生きてみようっと・・・。
今日も一日無事に過ごせた事を心より感謝します。どうか明日も良き一日をお与え下さい。
この祈りを主イエス・キリストの御名において捧げます。
ア〜メン。(-人-)